ところでパウロは、ギリシア哲学には、偽りを真理として提示して、多くの人に無視できないもっともらしさを与えるものがあるのを知っていました。彼は、そのようなものについて次のように言っています。「あなた方は、誰かが哲学と虚しい欺きとによって、あなた方を虜にすることがないように注意しなさい。それらの哲学と虚しい欺きは、人々の言い伝えに基づくもの、宇宙の構成要素に基づくものであって、キリストに基づくものではありません[1]」。とはいえパウロは、世の知恵の諸説にも、何らかの偉大さが現れているのを見て、哲学者たちの諸説は、「宇宙の構成要素に基づいている」と言っています[2]。しかし理解力のある人なら、ケルソスの書物も「宇宙の構成要素に基づいている」とは言わないでしょう。パウロは、何かしら人を欺くものを含む哲学の諸説をまさに虚しい欺きと名づけたのですが、それはおそらく、エレミアが見抜いた虚しくはない欺きと対比して言ったのだと思います。エレミアは神に向かって大胆にもこう言っていました。「主よ、あなたが私を欺いたのです。そして私は欺かれました。あなたは私に勝り、力ある方でした[3]」と。ケルソスの説は、欺きを含むものでは決してなく、それゆえ虚しい欺きも含まないように私には思われます。このような虚しい欺きは、哲学の学派を創始し、哲学の諸説に関して類まれな理解力を有する人々の諸説が含むものなのです。そしておそらく、幾何学的論証における誤りを、それらの論証の練習を目的とした詭弁であると言ったり、わざわざ書いたりする人がいないように、「人々の言い伝えに基づき、宇宙の構成要素に基づく」虚しい欺きと呼ばれるべき考えも、哲学の学派の創始者たちの考えに似ているとしなければなりません[4]



[1] Col.2,8.

[2] 世の知恵のなせる業である哲学は、神のみ言葉がもたらす知恵には劣るが、それなりの価値をもっている。なお、訳文中の「宇宙の諸要素」の「宇宙」と「世の知恵」の「世」の原語はともに、ko,smoj(コスモス)である。

[3] Jr.20,7.

[4] オリゲネスは、ケルソスの主張が人を欺かせるような巧妙さを持たないばかりか、虚しい欺き・推論上の誤りを持ちながらもそれなりの論拠を持つ哲学にも値しないと酷評しているのである。なおオリゲネスは、この一文の前半を書くにあたって、アリストテレスの『トピカ』第1巻第1101aを念頭に置いていたと思われる。