この序文は、ユダヤ人を登場させてまでイエスに反対したケルソスに対して必要なすべてのことを述べた上で、本書の冒頭に置いたものです。それは、ケルソスに対して私が述べた反論をこれから読む読者が、この序文をあらかじめ読んで、本書が信者の人たちのために書かれたものではまったくなく、むしろキリストへの信仰についてまったく不案内な人たち、あるいは、使徒がこう呼んでいるように「信仰において」弱い人たちのために書かれたものであることに気づいてもらうためです。使徒は次のように言っておりました。「あなた方は、信仰において弱い人を受け入れなさい[1]」と。ところでこの序文を借りて、私が、ケルソスへの反論の叙述の冒頭部とその後の(私の反論の)叙述とを、それぞれ別の意図で行ったことを釈明させてください。私は当初、(ケルソスからの攻撃の)要点とそれについての簡潔な反論を述べ、その上で本書の具体的な仕上げをしようと考えておりました。ところが後になって、この企てそのものが、時間を惜しむ私に、まず冒頭部においてこのとおりの(ケルソスからの要点の)叙述を行い、次いで私のできる限りで、私たちに対するケルソスの数々の非難に対して断固として戦うように促したのです。ですから、この序文に続く個所の冒頭部について寛恕を請いたいと思います。しかしもしもあなた様が、この冒頭部に続く(私の反論の)叙述によっても効果的な感銘を受けず――その点についても同様の寛恕を請いたく存じますが――、それでもケルソスの発言を論破する叙述がお望みであれば、私より聡明で、私たちに対するケルソスからの非難を、発言と書物とでもって覆すことのできる人々にお伺いくださるようお願い申し上げます。しかし、ケルソスの論集を読んでも、それに対する弁明をそもそも必要とせず、かえって彼の書物にあるすべてを蔑視できる人は、幸いです。なぜなら彼の書物の内容は、キリストへの信仰を有する人なら誰でも、その人の内におられる霊によって、軽視するにきまっているからです。

 



[1] Rm.14,1.