P.ノータンによる年譜(新説)
185±2 |
オリゲネス、アレクサンドリアに誕生 |
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201±2 |
オリゲネスの父(レオニダス)が殉教 |
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203-205 |
勉学に専心する |
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206-210 |
迫害の渦中で幾人かの若者たちのキリスト教教師となり、その内の幾人かが殉教する。 |
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211-217 | 迫害後も文法学を教えながら、キリスト教を教える。 この頃、世俗の書物を売り、キリスト教の教授に専念する。 |
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215-221 |
この頃、ローマに数ヶ月滞在し、アレクサンドリアに帰還後、『テトラプラ』の編纂に着手する。 オリゲネスの後援者アンブロシオスが回心する。 |
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222-229 |
アンブロシオスが速記者と写字生を雇って、著述活動を促す。
この時期の終わり頃、アラビアに旅行する。 |
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229-230 |
『創世記注解』の最初の数巻 『諸原理について』、この試論が物議を醸し出し、パレスティナに赴く。オリゲネスはその地で、カイサリアの司教テオクティストスとエルサレムの司教アレクサンドロスの要請に乞われて、説教をする。 |
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231 |
アレクサンドリアに戻る。 『ヨハネによる福音注解(I-IV)』 |
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231冬-232 |
アンティオキアで、アレキサンデル・セヴェルス帝の母ユリア・マンマイアにキリスト教を説く。 |
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232春 |
アレクサンドリアに短期間滞在する。 『ヨハネによる福音注解(VI)』の下書き パレスティナを経由してギリシアに赴く。 カイサリアで、当地の司教テオクティストスから司祭叙階を受ける。しかし、アレクサンドリアの司教デメトリオスがこれに抗議し、ポンティアヌス教皇に上訴する。 |
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233春 |
アテネにおいて、エルサレムの司教アレクサンドロスからデメトリオスによる非難を知らされる。かれは自伝的書簡でこれに応えている。 |
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234 |
カイサリアに戻る。
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235-238 |
キリスト教への迫害が再開する。 『殉教の勧め』 カッパドキアのフィルミリアノス、パレスティナに避難 |
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238-244 |
『ヨハネによる福音注解(XXII-XXXII)』 238年後半頃、テオドロス、オリゲネスに師事する。 |
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239-242 |
エルサレムにて数々の聖書講話を行なう。
この時期(239-244の間)、アラビアにて、司教ヘラクレイデスに対する教会会議に出席。この時の談話が『ヘラクレイデスとの対話』として現存。 |
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243 |
『使徒行禄注解』 |
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244 |
『イザヤ書注解』『イザヤ書スコリア』『エゼキエル書注解(前半)』 |
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245 |
この頃、論考『過越について』執筆。 テオドロスがオリゲネスのもとを去る際に、『謝辞』を残す。 第二回アテネ旅行 『エゼキエル書注解(後半)』『雅歌注解(I-IV)』 ニコポリア旅行。この時、五番目の聖書のギリシア語訳本を見出した。 |
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245/246 |
ギリシアまたはカイサリアにて『十二小預言書注解』 |
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246-247 |
カイサリアにおいて 『雅歌注解(後半)』『詩編注解』『箴言注解』『伝道の書スコリア』 オリゲネスのかつての助手アレクサンドリアの司教ヘラクラスが、オリゲネスを論難する書簡をローマ教皇ファビアヌスに送る。この時オリゲネスは、『アレクサンドリアの友人たちへの手紙』を書く。 |
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248 |
ニコメディアにいるアンブロシオスのもとに滞在する。 『ローマの司教ファビアヌスへの書簡』『アラビアのフィリポとセヴェラ皇后への書簡』『カッパドキアのフィルミリアノスへの書簡』『ヨハネによる福音注解(第32巻)』『ヨハネによる福音スコリア』 |
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249 |
カイサリア(あるいはツロ?)において
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249-251 |
投獄されて拷問を受ける。 |
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251年6月以降 |
拷問の傷がもとで死去。 |
Origene I: Sa vie et son oeuvre, Paris, 1977, pp.409-412参照