比較宗教学

2019/02/03


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第1回

第1章 宗教と宗教学

 宗教という言葉

現代人である我々にとって、宗教は一体どんな意味を持つのか

@   古代ギリシアでは、宗教は、「治療」や「奉仕」という意味のテラペイアという言葉で表される。それは、医術と関連しているどちらも、心身の病を癒すという点で共通しているからである

A  英語やフランス語、イタリア語のなどのロマンス語では、宗教は、「聖なるものへの 畏怖 ( いふ ) や敬意」を表わすreligio(レリジオ)という言葉に由来した。

B   キリスト教が西洋で支配的になるとreligioという言葉は、(二つのものを)つなぐ、結び合わせる」を意味する動詞religo(レリゴー)の名詞形religatio(レリガチオー)と結合して、人間と神とを結び合わせるものという意味を帯びた。

C   中国では、このreligioに対応する宗教という言葉は、「先祖を意味する」と、教えを意味する」という字から組み立てられている。このよい例は、孔子の教えを守る儒教である。

 宗教の栄枯盛衰

過去2千年の人類史を振り返ると、隆盛を極めた巨大宗教が消滅し、一つの「宗派」に過ぎなかった小集団が小集団の枠を越えて、世界中に影響を及ぼす宗教に成長した。

ローマ帝国内では紀元後1世紀後半から4世紀中頃までミトラ教というものが流行した。しかし、ユダヤ教から分かれた小さな集団に過ぎなかったキリスト教がこれに代わった。他方、ユダヤ教は、あらゆる迫害・攻撃にもかかわらず、今日でも「民族宗教」としてユダヤ人の間に信仰されている。古代エジプトの神々(アニミズム)イスラム教によって駆逐され、その遺跡だけが往時の面影を残している。

 本講義の目的

本講義では、宗教の営みを文化現象として捉え、世界の代表的な諸宗教の発生と歴史(開祖・教義)を簡単に解説し今日における宗教の意味と役割(働き)を確認してみたい

しかし本講義では、時間の制約上、宗教全般を取り上げることはできず、原始社会一般に広く見られる宗教(アニミズム)から話を始めキリスト教仏教の歴史と教義を概観し、折に触れてイスラム教、ヒンズー教(インドの宗教)、日本の神道に言及し、諸宗教の比較検討を行う。その上で、今日における宗教の役割を確認する。講義の流れを図示すると次のようになる。

世界の諸宗教の根底には、原始社会のアニミズムがある。このことを無視しては宗教は存在し得ない。

 比較宗教学の使命――単なる人間の営み・文化現象としての宗教

本講義を始めるに当たって、比較宗教学とは何か、そして、そもそも宗教とは何なのかを定義しておこう。

 本講義で取り上げる比較宗教学は、研究者自身が信じる宗教がどういうものであるかを、他の宗教との比較の中で明らかにし、読者にもその信仰を勧めるといった類の、特定の宗教の布教を目的とした研究ではない。本講義で取り上げる比較宗教学は、世界の諸宗教を単なる文化現象単なる事実として捉え、その成立と特質・特徴を他宗教との比較の下に明らかにしようとする客観的記述的な学問(science)である。したがって本講義が解説する比較宗教学は、世界の諸宗教をありのままに、分かりやすく記述(写生)し、その長所(利点)短所(問題点)を指摘することだけを目的にしている。

ところで、文化現象としての宗教とは、厳密には、どのようなものだろうか。文化現象は、人間の営みである。しかし人間の営みであれば、どのような営みも文化現象であると言うことはできない。たとえば、個人の一時的で気まぐれな営みが文化だとは、到底、言うことはできない

文化現象とは、社会の人々によって、

@      伝えられたもの(伝承・伝統)

A      学びとられたもの

B      共有されているもの

という特徴を持っている。

本講義で研究対象とする宗教現象は、このような三つの性格を持った文化現象である。

 宗教の定義

 次に、宗教とは、いったい何だろうか。それは、単に「神の存在と、神の教えを信じ、その教えに生きる」ことなのか。宗教とは何なのかを、世界のいわゆる諸宗教すべてにあてはまるような形で、定めることはできない。宗教という言葉の意味が文化によって異なっている。

宗教という言葉の定義には、次の三つの類型がある:

@      第1の類型の定義は、「宗教とは、神と人との関係である」というもので、神の観念を中心として、宗教を定義しようとする。しかし、宗教の中には、神を立てないものがある。たとえば仏教は、神を前提にしない。仏教の開祖である仏陀や仏様なるものは、基本的に神ではない。したがってこの定義は仏教に当てはまらない。

A      第2の類型の定義は、神々しさ清浄感神聖感畏敬の念などの宗教体験に伴って現われるヌーメン(numen)という感情でもって、宗教を定義しようとする。ドイツの宗教学者ルドルフ・オットーが提示したヌミノーゼ(Numinose)による宗教の定義は有名である。しかし、このような情緒的経験は、人間の宗教的な営みの結果として現れる副産物的であって、宗教そのものが何であるか(本質)を明らかにするものだとは言えない。それは、宗教の特徴の一つを言ったに過ぎず、宗教の定義としては不十分である。

B      第3の類型の定義は、人間の日常生活の中で、宗教が果たす役割に注目して、宗教を定義しようとする。それは、言い換えれば、宗教者個人の内面の感情を度外視して、外側に現われた働きや産物だけ(行事・活動・美術など)に着目して宗教を定義する。難しく言えば、第三者からみて客観的に観測可能な事例に基づいて、宗教とは何かを探求する。

本講義では、世界の諸宗教を文化現象として捉え、客観的に記述し比較することであるから、この第3の類型の定義が本講義に適している。本講義では、この第3の類型の定義に ( そく ) して、宗教が人間生活の中で、どのような働きをしているか、どのような役割を果たしているか、そういう観点から、世界の諸宗教を観察する

この第3の類型の定義を正確に述べれば、以下のようになる:

宗教とは、人間生活の究極的な意味を明らかにし、人間の問題究極的な解決を与えることができると、人々によって信じられている人間の営み(文化現象)ある

この宗教の定義に述べられた人間生活の究極的な意味とは、私はなぜここにいるのか、何のために生きているのかという問題に答える人生の意味や目的をさす。人間の問題とは、生老病死や離別、苦悩などの人が生きる上で遭遇するあらゆる諸問題をさす。もちろんそれらの諸問題は、宗教以外の学問によっても解決することができるだろう。しかし、それらの諸問題は、自然科学やその他の学問(哲学)によっては、今のところ十分には解決されていない

以下では、この定義の文言の中で下線を引いた語句を説明しつつ、比較宗教学の見地から見た「宗教とは何か」すなわち「宗教の本質と働き」を考えてみたい。

 人間の問題

(1) なぜ人間は、自分自身を問題にするのか

そもそも人間の行動の原動力となっているものは、「欲求」である。人間を行動に駆り立てる欲求には、「もっとそれを続けていたいもっと繰り返したい」というブラスの方向(プラスの価値志向性)と、「もうやめたい」、「もう繰り返したくない」というマイナスの方向(マイナスの価値志向性)がある。

人間の欲求は、常に、このプラスとマイナスの価値志向性の危うい均衡の上に成り立っている。さらに、欲求は、基本的欲求文化的欲求社会的欲求に大別される:

@        基本的欲求というのは、直接に、人間の生理的条件と結びついた欲求である。

A        文化的欲求というのは、生活習慣が染み付いて(内面化して)、自分自身の欲求(個人的欲求)となったものである正月になると、食物の中でも、特に、 ( もち ) が食べたくなる。これは、基本的欲求に比べれば、第二次的欲求(derived need)である。しかし、人間を行動に駆り立てるその力は、基本的欲求に劣らず強力な場合が多い。

B        社会的欲求というのは、個人を離れて社会全体が共通して持つ欲求で、「しなければならない」とか、「〜してはならないという義務意識を伴っている。具体的には、礼儀作法や日常的な道徳規範を順守する欲求が、それに相当する。それは、社会的・倫理的な価値として、その社会を構成する諸個人の心の中に内面化されている。社会的欲求も、人間を行動に駆り立てる強力な力を備えている。

(2) 欲求不満と宗教の約束

欲求が充足されて、不満が解消すれば、心の緊張はなくなる逆に欲求が満たされなければ、欲求不満が生じる欲求が常に満たされていれば、人間の問題は生じない。しかし、他の人や環境との順応関係や調整作用がうまくいかなくなると、人間は欲求不満となり、その心の中に緊張状態が生まれ、そこに人間の問題が発生する。

欲求は、「未来志向性(future-orientation)を持っている。それは、将来における欲求の充足を志向している。しかし、将来における欲求の充足が望めない場合に、心は、過度の緊張状態に陥る。これは不安の状態である。欲求が充足する見通しが立たず、更に不安が ( つの ) ると、心は、 葛藤 ( かっとう ) 状態に陥る。ここに、解決を要する人間の問題が現われてくる。

このような人間の問題に対して、宗教は、究極的な解答を与え、抑え難い不安を解消すると約束するのである

 人間生活の究極的な意味

宗教は、人間の問題に最終的な解答を与える。もちろん、人間の問題の解決をはかるものは、宗教だけではない人間のすべての努力は、人間の問題の解決を目指している宗教は、そうした人間の努力の、一つの形態であるに過ぎない。そうであれば、文化現象(人間の文化的営み)の中で、どのような特徴を持ったものが、特に宗教と呼ばれるのだろうか

我々は、人間の問題を解決するのに、科学や技術が提供する手段に訴えることができる。しかしそれらの手段には限界があり、決定的、最終的な解決が約束されているわけではないしかし我々人間は、常に、あらゆる場合に適用できるような問題の解決方法を求めてやまないこうして社会には、そうした人間の無限の要求に応えることができるような文化的産物(人間の営み)が、造り出されるそれが宗教という文化現象(人間の営み)である

ところで、「人間の無限の欲求に根差した問題」とは、たとえば:

·      人間は死後、どうなるのか、

·      どのようにして離別の苦しみから解放されるのか、

などの、既存の科学では解決が見込めなそうにない諸問題である。

 人間の問題の究極的な解決

宗教は、人間の問題を「決定的・最終的に」解決するということを、もう少し詳しく見てみよう。宗教は人間のいかなる種類の問題も、いかなる困難な問題も、必ず、解決すると約束する

「究極的」(最終的・決定的)というのは、あらゆる問題に対して無限に優位するということである。この無限優位性が、宗教の機能の根本的特性である。すなわち、宗教が持つ問題処理能力は、問題の難しさの 如何 ( いかん ) にかかわらず、いつも、それより優位にある

したがって、宗教の働きの究極的という性格は、次のような不等式で現わすことができる。問題の難かしさをαとする。宗教の問題処理能力をxとする。そうすると、そのαxとの間には、次のような関係が常に成立する。

xα

歴史的な諸宗教体系を観察すると、どれも、このような構造を持っている。

 信じられている

宗教とは、人間生活の究極的な意味を明らかにし、人間の問題に究極的な解決をもたらす人間の営み(=文化現象)である。このことは、具体的には「宗教団体」や「宗教集団」などの「宗教体」の中に現われる。

宗教体は、それぞれ、独自の教えと理想を掲げて、人間の問題を解決する具体的な処理方法を提案する。その宗教を信奉する人々は、そうした方法の有効性を信じている。人々は、人間の問題が当該の宗教が提示する方法によって解決されると「確信している」からこそ、その宗教体の参加する。

もちろん、その宗教体が提供している問題の解決策を、信徒が「確信している」ということと、その解決策が、実際に効果的であるかどうかということとは、別の問題である。とはいえ宗教は、その問題解決能力の実効性が確信されることで成立する。その意味で、宗教体が提示する問題解決策は、その効果が現実的であるから信じられるというより、人々が信じるからこそ、その宗教体の問題解決策には効果があると言えよう。

したがって問題を解決することができると信じる信仰こそ、宗教を他の文化現象から区別する特徴であると言うことができる。すなわち、宗教は、当事者によってその問題解決能力が信じられている文化現象である

 以下では、世界の主な諸宗教を、このように人間によってその有効性を信じられた文化現象と見なして、それらの諸宗教の開祖、教義を客観的に記述(写生)し、それらの諸宗教を比較しつつ、現代社会における宗教の可能性と役割を考察することにする。

 

 

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