ユダヤ人のパスカとキリスト者のパスカ

1  ユダヤ人たちは、天のパスカをこばみながら、地上のパスカを祝っております。しかし私たちは、地上のパスカを乗り越えて[1]、天のパスカを祝います。そしてパスカの生け贄の血によって象徴的に守られたユダヤ人たちの初子らは、エジプトの初子たちと共に滅ぼされることがありませんでしたので、彼らのあいだで挙行されたあのパスカは、ユダヤ人たちの初子らの救いの象徴でありました。しかし私たちのあいだで挙行されるパスカは、すべての人の救いの原因であります。それは、最初に形成さられたおん方[2]、すべての人たちの内で最初に救われ生命を与えられたあのおん方によって始められたものなのです。 2 そして諸部分は諸々の完全なものの像であり予型として、また数々の一時的なものは諸々の永遠なものの像であり予型として、いま立ち現れた真理のために、影絵のごとくあらかじめ行なわれたものでありました。しかし真理が現存するところでは、予型は時機外れであり、それは、王さまが到着なさった後では、誰も、生きておられる王さまご自身を差し置いて、そのお像を伏し拝むのをよしとしないのと同じであります。 3 したがって、予型が真理に劣っていることはおのずから明らかであります。なぜかと申しますと、予型はユダヤ人たちの初子らの束の間の生命を祝っていたのに対して、真理はすべての人間の絶えざる生命を祝うからであります。実に、しばらくすればやがて死んでしまう人のために、ひとときのあいだ死を回避したしても、それは偉大なことではありませんが、死をきっぱりと避けることは偉大なことなのであります。そしてこれは、私たちのためになされました。私たちのために、「パスカ(の小羊)キリストは屠られた[3]」のであります。 4 その上、この祭りの名称それ自身が、真理に基づいて解釈されるとき、この上もなく偉大な卓越性を持つようになるのであります。すなわちパスカとは、解釈すると、過越となるのであります[4]。確かに、(エジプト人たちの)初子らを打ち滅ぼしたあの破壊者は、ヘブライ人たちの家々を過ぎ越していかれました。そしてこの破壊者の過越は、私たちのあいだで真実なものとなります。なぜならそのおん方は、キリストによって永遠の生命へとよみがえる私たちを完全に過ぎ越していかれるからであります。



[1] u`perbebh,kamen;この語はパスカの語源的解釈を暗示している。

[2] o` prwtopla,stoj;エジプトの初子たちに対比されている。

[3] I Co.5,7.

[4] u`pe,rbasij me.n ga,r evsti kaq'e`rmhnei,an to. ta,sca