私はその血を見て、お前たちを守る

1  律法の数々の予型の合理性は[1]、真理に基づいて明らかとなります。たとえば、律法がパスカの生け贄として利用した小羊が、汚れなきものであることや、それが雄であること、また、一歳であることや、その月の十日に取られて十四日の夕暮れに屠られねばならないこと、さらには、そのパスカが執り行なわれたときが諸々の月の元となることなど、これらすべてのことは、キリストにおいて、キリストのご受難の内に、真実であり必然であることが証明されるのであって、それら自体ではいなかなる根拠も[2]持ちえないのであります。 2 また、キリストを知らない人たちは、たぶんそれらのことについて説明を行なうことができないでしょうし、なぜ神がそれらのことをお命じになられたのかも教えることができないでありましょう。また、神が初子たちの救いのために生け贄をお定めになり、(家の)数々の入り口に血の塗布が行われたことに、そもそもどんな理由があるのかを、(キリストを知らない人たちは)教えることができないでありましょう。実際、数々の生け贄の屠殺は、初子たちの救いに対してどんな力を持っていたのでありましょうか。家々のしるしとしての血の塗布には、どのような必然性があったのでありましょうか。なぜなら神は、諸々のしるしがなくても、ヘブライ人たちの家をご存じだったからであります。ですから (神が)「私はその血を見て、お前たちを守る[3]」と言われたことは、驚くべきことであります。しかしながら、さきに語られたその他の事柄において私たちが示したのと同じようにして、さらにそれらのできごとをも真理に帰着させる人は、それらのできごとの合理性を見出だすことでありましょう。 3 実際、あの汚れなきおん生け贄が私たちのためにお苦しみになりますと、最初に創られた人間[4]に由来する死は滅ぼされます。そして、私たちみんなの内にある最初に生まれた人間[5]が救われて、主のご復活によって生命を与えられるのであります。<なぜなら生命は当然、罪と死を滅ぼすことができものだからであります>。また、あの汚れなきおん血も、それに与る人たちに救いをもたらすしるしとなります。神はそのしるしをご覧になると、信仰を通して血の塗布を受けた人々をお救いになるのであります[6]。確かに、これら血の塗布を受けた人々は、人類愛のゆえに私たちのために注がれたおん血によってでなければ、正当な報いを求める天使を避けることができないのであります。 4 予型を真理に基づいて考察いたしますと、この予型がどれほどの力を有しているか、(あなたは)おわかりいただけるでありましょう。ですからもしも、「一体どうしておん子は、宇宙が救われるために、お苦しみになったのか、まるでそのことがなければ宇宙は救われないかのように」と主張しようとするユダヤ人がいるのであれば、彼に対してこう言うことにいたしましょう。「一体どうしてパスカ(の小羊)は、ユダヤ人の初子らの救いのために屠られたのですか、まるでそのことがなければ彼らが救われないかのように」と。そのユダヤ人は、どう答えてよいかわからないでありましょう。なぜなら神は、数々の生け贄を必要となさいませんし、数々の家の識別のためにしるしを必要となさらないからであります。ところがその出来事は、私たちに味方し、そして、聖なる信仰を証しているのであります。現に、私たちの不正は、キリストの正義の内に解消されました。しかしたぶん、それ以外の仕方では解消されないでありましょう。<なぜなら闇は、光によって消滅するからであります>。また、私たちの死は、ちょうど闇が光によって滅ぼされるように、キリストの生命によって滅ぼされたのであります[7]

5  もちろんあの(かつての)生け贄も、神聖なものでありました。なぜならあの生け贄は、真の生け贄の予型だったからであります。しかしこの真の生け贄の方が、まさに真の生け贄として、本当に神聖なものなのであります。そしてこの真の生け贄は、不敬な者たちの無知によって死と破滅に渡されましたが、神のみ旨によって神聖なる生け贄として取られ、生け贄ご自身の意思によっておん父への供え物として献げられたのであります。実際、「おん父は私たちのためにおん子を(死に)渡されました[8]」。そしてキリストは、教会のために、「ご自身をかぐわしいかおりの供え物、生け贄として」おん父に「お献げになりました[9]」と言われておるのであります。 6 そして、キリストの破滅を当て込んでいた者たちにとって、その目論みが(逆に自分たちに)破滅をもたらすものとなってしまいました。ところが、主の死を通して救いを求める人たちにとっては、その信仰は救いをもたらすものとなるのであります。報いと死がそのような人たちを過ぎ越すのです。なぜなら救い主によって言われたお言葉によると、そのような人たちが、死によって滅びのとりこになることはないからであります。こう言われております。「もしも人が私の言葉を守るなら、その人は永遠に死を見ないであろう[10]」と。 7 実に私たちは、私たちのために流されたおん血を通して、聖霊を受けたのであります。なぜかと申しますと、おん血と霊とが一つに合体した[11]おかげで、私たちは、私たちと同類の血を通して、私たちと同類ではない聖霊を受けることができるようになったのであり、また、この聖霊によって私たちは、私たちの中へと通じる入り口を、死に対して閉ざせるようになったからであります。



[1] to. eu;logon

[2] lo,goj

[3] Ex.12,13.

[4] o` prwto,plastoj

[5] o` prwto,gonoj a;nqrwpoj

[6] オリゲネス『過越について』第25節参照

[7] Cf.1 Co.15,26.

[8] Rm.8,32.

[9] Ep.5,2.

[10] Jn.8,51.

[11] eivj e[n h=lqe to, te ai[ma kai. to. pneu/ma