二本の柱と鴨居に

8  ところで、死にはいわば二つの入り口があります。血の封印が二つになるのもこのためでありましょう。「二本の柱と鴨居に[1]」と言われています。実際、使徒が言っているように、「死は罪を通して[2]」入ってきますが、罪には、私たちの中にある情念に関する罪と――しかもこの情念には、魂を無気力にまで衰弱させるものと、魂を頑なにして冷酷非情にさえするものとがあります――さらには、健全なことや正しいことを考えない場合の、思考に関する罪があります。そしてこの思考は、二つの柱の上に架けられた鴨居<すなわち、まぐさ>のようなものであります。なぜならそれは主導的なもので、本性上より上位にあるからであります。他方、情念の方は、(二本の)柱と似たところがあって、ちょうど柱がまぐさの下にあるように、思考の下位に属しているのであります。 9 では、無気力にまでさせる情念とはどようのようなものでしょうか。それは、大食と酩酊そして性欲であります。では、魂の頑なさとは何でしょうか。それは、怒りと頑固さであります。あのパウロは、これらの情念を抹消しようとして次のように述べておりました。「酒盛りで酔いつぶれたり、みだらな行いによって身を持ちくずしたりせず、また言い争ったり、ねたみを抱いたりせずに、私たちの主イエズス・キリストを身にまといなさい[3]」と。 10 したがって塗布は、着付けのようなものであります。確かに私たちは、キリストのご受難にかたどられながら、キリストの聖性で身を包みますので、快楽に身をやつすこともなく、激情に凝り固まることもないのであります。また諸々の思考にとって、塗り付けられたものは、着付られた着物であると言ってもよいでありましょう。その着物とは、知恵、肉的ではない知恵、キリストにそくした知恵であります。私たちはこの知恵のおかげで、肉的な精神に対して、自分を殺し、いわば死人のようになる一方で、霊的な精神で飾られるのであります。実際このようになれば、理不尽な情念や馬鹿げた考えを通って、罪が私たちに襲いかかることもありませんし、また、死が私たちを抑圧することもありません。



[1] Ex.12,7.

[2] Rm.5,12.

[3] Rm.13,13-14.