苦菜に添えて種なしパンを

13  しかしこの火が、受け取られた肉を享受するための沸き返る熱意を表現するものであるのと同様に、種なしパンは単純さを、苦菜は引き続き生じる苦悩を表現しております。なぜなら「種なしパンを苦菜に添えて食べなければならない[1]」と言われているからであります。 14 単純で無垢な生活は、あの古い邪悪をあたかもパン種であるかのように捨て去り、新たな潔白さを受け取って、種なしパンとなるのであります。実際、次のように言われております。「私たちのパスカ(の小羊)キリストは、屠られました。ですから私たちは、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いて祭りを祝うのではなく、純潔と真実の種なしパンを用いて祭りを祝うことにしましょう[2]」と。また、(苦菜の)苦味とは、数々の苦悩のことであります。こう言われております。「そればかりでなく、私たちは数々の苦悩さえ誇りにしています。なぜなら苦悩は忍耐を生み、忍耐は試練に研かれた徳を生み、また、この徳は希望を生み、希望は(私たちを)裏切らないということを私たちは知っているからです[3]」。「私たちは、多くの苦悩を経て(神の)国に入らなければなりません[4]」。こう言われているのであります。ですから私たちは、苦悩から希望と(神の)国とがもたらされるのですから、この苦悩を香辛料[薬味]のように受け入れることにいたしましょう。



[1] Ex.12,8.

[2] 1 Co.5,7-8.

[3] Rm.5,3-5.

[4] Ac.14,22.