火に焼いて食べる

17  そういうわけで、聖なる肉を香辛料と混ぜて、煮てはならない。むしろそれは、「火に焼く」だけで、食べられねばならないと言われているのである。ここで言われる火とは、快楽を嫌う高鳴る熱意であります。パウロがいうように、快楽欲は神への愛にはなりません[1]。「腹が神となっている[2]」者たちにとっては、神は神ではないのであります。また、感謝の祭儀[3]を贅を尽くした宴会に変える者たちは、パウロのもとでは歓迎されません。なぜなら彼らは、聖性をもたらす交わり[4]を暴飲暴食の口実にしてしまうからであります。パウロはそういった者たちに対して次のように言っています。「主の晩餐を頂くことができません。なぜなら、食べる際には先を争って自分の物を食べ、腹をすかしている者もいれば、酔っ払っている者もいるからです。そもそもあながたには、食べたり飲んだりするための家がないのでしょうか。それとも、神の教会を軽んじて、(家を)持たない者たちに恥ずかしい思いをさせているですか。私はあなた方に何と言ったらよいのでしょうか。あなた方を誉めればよいのでしょうか。このことについては誉めるわけにはいきません[5]」と。そしてパウロは、聖なる食物に関するそのような無節操な取り扱いによって、彼らには数々の試みが降りかかると言っております。なぜなら彼らは、聖なるものに聖なる仕方で近づかないからであります。こう言っていおります。「ですからあなた方の中には、病弱な人が多く、また、死の眠りについた者もかなりいるのです。もしも私たちが自分自身を裁いていたとすれば、裁かれることはなかったでしょう[6]」と。 18 確かに、主に対する冒涜の責めを負うのは、主のおん身体と融合するためのふさわしい身体を差し出さない人たちなのであります。ところで主は、ご自分のおん身体を私たちのために与えてくださいました。それは、私たちが主のおん身体と融合することによって、聖霊と融合するためであります。なぜかと申しますと、まさにこのようなわけで神のみ言葉は、ご自分を完全に身体の中にお与えになり、聖書の言葉によれば、「肉となった[7]」からであります。その結果、私たちは、み言葉としての神のみ言葉に参与できなくても、肉としてのみ言葉に与ることによって、私たちの肉を霊的な肉に、霊を霊にできるだけ適合させて、ついにはキリストの似姿[8]にされ、霊の神殿になるでありましょう。使徒が言っている通りであります。「あなた方は神の神殿です[9]」。また、「あなた方は、あなた方の身体が、あなた方の内に宿る聖霊の神殿であることを知らないのですか。あなた方はこの霊を神から受けたのです[10]」と言っています。そしてこのような、キリストの霊との融合によって、(私たちは)さらに身体を「聖なるものとして[11]」取り扱うようになるのであり、現にキリストの身体の諸部分[肢体]として扱っているのであります。実際、こう言われております。「あなた方は、あなた方の身体の諸部分が、キリストの身体の諸部分であることをご存じないのですか。私は、キリストの身体の諸部分を売春婦の身体の諸部分にしてしまうのでしょうか。そんなことがあってはなりません[12]」と。



[1] Cf.2 Tm.3,4.

[2] Ph.3,19.

[3] h` euvcaristi,a

[4] h` a`giastikh. koinwni,a

[5] 1 Co.11,20-22.

[6] 1 Co.11,30-31.

[7] Jn.1,14.

[8] o`moiw,mata Cristou/

[9] 1 Co.3,16.

[10] 1 Co.6,19.

[11] 1 Th.4,4.

[12] 1 Co.6,15.