頭と足を一緒に

19  ですから律法はこのようにして、そしてこのような数々の象徴において、聖なる食事の準備を命じ、私たちの「利益のための[1]」予型をあのとき定めたのであります。しかし律法は、「頭を足と内蔵と共に[2]」と言っております。律法は、頭ということで、人間たちへの顕現の元、すなわち、第一の到来の元を暗示しております。また、足と言うことで、終末、すなわち、第二の到来を暗示しています。この第二の到来がなければ、第一の到来を信じることはできないでありましょう。なぜなら第一の到来は、預言されたことをすべて成就していたわけではなかったからであります。それでユダヤ人たちは、栄光に包まれた到来の諸預言が実現していませんから、(この第一の到来を)信じようともしませんでした。彼らは、このようにして訪れてくださったおん方がメシアであると思わなかったのであります。 20 こういうわけで律法は、(二つのことを)結び付けて、「頭を足と共に」、すなわち、第一の到来を第二の到来と共にと言ったのであります。それはあなたが、惨めな姿で「屠り場に引かれていった小羊[3]」を主として受け入れ、「王が栄光を帯びて[4]」現れるのを見るようになるためであります。これら二つのことは、預言者イザヤが予言していたところでありましょう。またその目的は、あなたがイスラエルのあがないを(すぐに)要求せず、後になって、聖書の言葉が実現すればよいと期待するようにさせるためであります。その聖書の言葉ではこう言われています。「主はあがなう者として、シオンから来られる。不敬虔な者たちをヤコブから追い払う[5]」と。主は、(まず)ご自分の許に立ち返ってくるにちがいない(イスラエルの)民の残りの者をお救いになるのであります。そしてあなたは、第一の到来の際に、これと反対のことも成し遂げられたのにお気づきになるでありましょう。こう言われています。「私は、私の家を見捨て、私の嗣業を捨てた」。また、「主は彼の埋葬と引き替えに、不敬虔な者たちを(私に)委ね、(彼の)死と引き替えに富める者たちを委ねられた」と言われているのであります。



[1] 1 Co.12,7.

[2] Ex.12,9.

[3] Is.53,7.

[4] Is.33,17.

[5] Is.59,20.