そして内蔵と

21  ですから「頭を足と共に[1]」と言うとき、(聖書は)ユダヤ人たちに前もって異議を申し立てて、あなた方が、不信仰のゆえに主との交わりから切り離されないようにするために、主の栄光なき到来を栄光ある到来から切り離してはいけないと言っているのであります。そればかりか、「内蔵と共に[2]」と言っております。これは一体どういうことでありましょうか。それは、(皆さまが)うわべに躓かないで、秘された事柄を考察するようになるためであります。主が肉によれば人間でもあるからといって、主があなた方と同じであると思い込まないようにさせるためであり、そのおん方を霊的に知り、そのおん方の内におん父を認めさせるためなのであります。 22 実際、あなたが内部をご覧にならないうちは、また、内蔵に与らないうちは、まだあなたはキリストをご覧になったことがないのであり、キリストは人間であって、神ではないと考えているのであります。ところがキリストは、みずからこう言われております。「私を見た者は、父を見たのである[3]」。



[1] Ex.12,9.

[2] Ibid.

[3] Jn.14,9.