朝まで残してはならない

23  さらに「お前たちはその肉を朝まで残してはならない[1]」ということは、どういうことなのかも検討しなければなりません。そして私たちのために、あのパウロにこの言葉を説明してもらうことにいたしましょう。彼はこう言っております。私たちは、「主が来られるまで[2]」、主のご受難の「記念[3]」をしよう、と。確かに、この記念が挙行され、この記念がそれを挙行する人たちを救うのは、いまの夜が過ぎ去り、朝が訪れるときまで、(すなわち)生命あるおん方キリストが天から私たちを照らしてくださるときまでなのであります。そのとき、キリストは、いまのところは(ご自分の)死によって私たちを救ってくださいますが、(そのときには)ご自分の生命によって私たちを救ってくださるのであります。「実際、私たちが神の敵であったときでさえ、ご自分のおん子の死によって神と和解させて頂けたのであれば、私たちがいつの日か、おん子の生命によって神と和解し、救われるのはなおさらのことです[4]」とパウロは言っております。 24 ですから私たちが、いまのところはキリストの死において救われ、そのときには生命において救われるとすれば、生け贄の肉を「朝まで」残しておいてはならないということは、正鵠をえた象徴なのであります。なぜなら私たちは、そのとき生ける者となるでしょうし、また、私たちの目下の死は過ぎ去っていくからでありす。私たちは今のところ、死ぬことによってしか救われませんが、そのときにはしかし、生命をもたらす救いを手に入れるのであります。こう言われております。「あなた方は地上のものに思いを馳せないでください。なぜなら、あなた方は死んで、あなた方の生命はキリストと共に神の内に隠されているからです。あなた方の生命であるキリストが現れるまさにそのとき、あなた方もキリストと共に栄光の内に現れるでしょう[5]」。



[1] Ex.12,10.

[2] Cf.1 Co.11,26.

[3] 1 Co.11,24.25.

[4] Rm.5,10.

[5] Col.III,2-4.