小羊は十日に取られ、十四日の夕暮れに屠られる

8  一年の元の象徴とは以上のようなものでございます。さらに(神は)「その月の十日に」おのおの家ごとに小羊を取り、家での会食者がそれを食べるのに十分な人数となり、(小羊の肉が)一つも残らないようにお命じなります。そして「十四日の夕暮れに[1]」その小羊が屠られるように命令されました。そういたしますと、その生け贄は、五日のあいだ、これによって救われることになる人たちと共におられたことになります。そして五日めが過ぎ去るとき、この神聖な生け贄は屠られ、死は過ぎ越し[2]、救われた者は絶えることのないひかりを喜び味わいます。そしてよもすがら月が輝き、太陽が月の後に続きます。なぜならこのことが起ったのは、十五日の満月の日だったからであります。 9 ところで、これら五つの期間は、五つの時期に分けられる宇宙の全時間を示しております。(まずは)アダムからノエまでの時期であり、次に、ノエからアブラハムまでの時期、アブラハムからモーセまでの時期、モーセからキリストのご来臨までの時期、そしてご到来そのものの第五の時期であります。この全時間において、幸いな生け贄による救いが人間のために準備されておりました。しかしまだ成し遂げられてはいませんでした。この時間の第五番目の期間に、まこのとパスカ(の小羊)は屠られ、さらにこのパスカによって救われた初子たる人間は、絶えることのないひかりへと進みでたのであります。しかもパスカ(の小羊)が晩にではなく、晩近くの夕暮れに屠られたということは、キリストがまさしくこの代の終わりにではなく、この代の終わり近くに苦しみを受けたということを明らかにいたしました。 10 このように時間が分けられることは、あの<キリストの>たとえ話もし示しておりました。キリストは、時間を五つに分けて、ぶどう畑に、すなわち、正義の仕事に召しだされた者たちのある者は一時に、また、ある者は三時に、ある者は六時に、ある者は九時に、また、ある者は十一時に召しだされたとおっしゃっていたのであります[3]。確かに、それらの召しだしは様々であり、また、様々の正義の業がありました。アダムの場合とノエの場合、アブラハムの場合とモーセの場合はそれぞれ別物であります。そして最後にもっとも完全なのは、キリストのご到来の場合でございました。そのとき、あの救いをもたらすたとえ話によりますと、もろもろの働きの報酬が、まず最後の者たちに与えられることになっております。なぜかと申しますと、私たちが最初に、洗礼によって再生を受け取るからであります。実際、私たちのために、「キリストは屠られ[4]」、次いで復活し、私たちを新たにするために聖霊を吹き込まれたのであります[5]



[1] Ex.12,3-4,6.

[2] u`perbai,nei

[3] Cf.Mt.20,1-16.

[4] I Co.5,7.

[5] 講話作者は、キリストの死ばかりでなく、その復活も贖罪の働きをすることを強調する。なぜなら、キリストは、語復活の後に使徒たちに聖霊を遣わされたからである(Jn.20,22)