雄の

17  また、この小羊は、「雄で」なければなりませんでした。なぜなら雄が雌に対して身体的な主導権を有しているように、(魂の)主導的能力も本性的に主導権を有しているからであります[1]。確かにキリストは、その本性と真実において、天来の人間として、主権者であり王であり、また、肉体的な本性においては兄弟として、私たちと同じ立場に立たれます。しかしその霊的な神性においては支配者として君臨しておられます。 18 それゆえ、キリストは、しかもキリストだけが、一切の人間性という花嫁の花婿でもあるのです。実に預言者の内でもっとも偉大であったヨハネも、花婿ではありませんでした。彼は、キリストと自分自身についてこう言っております。まずキリストについて、「花嫁を持つ者は、花婿である」。次に、自分自身について、「しかし花婿の愛する人は、立って花婿の声を聞き、花婿の声によって大いに歓ぶ。だから私の歓びは、満たされた[2]」と言っております。また使徒たちも、教会の花婿では断じてありませんでした。もちろん彼らは、恵みによってキリストとの類似を獲得し[3]、キリストの霊を通してキリストの子どもになっておりました。では、幸いなるパウロは何と言っているでしょうか。「というのは、私はあなた方を、汚れを知らない処女として、一人の夫、つまりキリストに献げてめあわせることにしたからです[4]」と言っております。



[1] 省略

[2] Jn.3,29.

[3] th.n pro.j Cristo.n o`moi,wsin kata. ca,rin labo,ntej

[4] 2 C.11,2.