一歳の

19  ですから主は、本当に主権者であり、支配者、そして王なのであります。それは、主が人間たちのあいだで神であったという理由だけによるのではございません。主は、その先在する神性において、本性的に一切の被造物の王であったからであります。もちろん主は、この王権を恵みによってえたのではありません。真理とおん父からの誕生とにおいてこの王権を持っておられるのであります。さらにこの小羊は、「一歳の」小羊(と言われています)。このことは、主が、地上にあって若々しいおん方で、人間たちのあいだに見られる古めかしさを微塵もお持ちにならないということを明らかにしたのであります。

20  したがってもしもある人が、主は単なる人間に過ぎないといい、キリストを私たちの本性に位置づけるとすれば、その人にとって小羊は「完全で」も「汚れない」ものでもなくなるでありましょう。なぜならいかなる人間も、汚れのない者ではないからであります。また、その人にとって小羊は、「雄で」もありません。なぜなら人間たちの誰一人として、本性的かつ完全な支配権を、同じ本性を有する人間たちに対して持ってはいないからであります。また、主を被造物の中に数え入れて、主は、神性を恵みによってえているのであって、真の神性を持っているのではないという人もまた、彼のために屠られた小羊を「雄の」小羊として持っているのではないことになるのであります。と申しますのは、その人は、本性的に王であるおん方を知らずに、本性においても真理においても王ではない別のものに向かっているからであります。しかしそればかりか、もしもある人が、人間的な古めかしさ<のいく分か>をキリストの中に導入して、キリストは罪を犯しうるとか、律法に隷属しているとか、あるいは、必然的に死に服しているなどと、大胆にも主張するのであれば、その人は、「一歳の」小羊を持っていないことになるし、キリストの内にある新しさに気づきもしなかったのであります。