謙虚にしてもっとも小さき修道司祭ダマスコのヨハネの第一教話

あらゆる賛辞に値しこの上もない栄光をもって祝せられたわれらの元后

神の母

終生乙女なるマリアのご就寝

 

 

緒言(1)

 

  「正しいひとたちの記憶は賛辞とともに[1]」あると、この上もなく賢明なソロモンはいっております。しい太祖ダビデは、「主を敬う敬虔な者たちの死は、実に、その主のみ前で貴重なものだ[2]」と、いっておりました。したがって、もしもすべての正しいひとの記憶が、賛辞とともにあるとすれば、正義の源であり敬虔な信仰の宝庫であるおん方に対して、賛美をお捧げしないひとがいるでありましょうか。もちろんわたくしたちは、自分自身に栄光を帰すために、この賛美をお捧げするのではございません。あの敬虔な信仰の宝庫であるおん方が、永遠の賛美のうちに、栄光を受けなければならないのです。実際、神さまの幕屋、神さまの都(であるお方さま)は、わたくしたちからの栄光を必要とはされませんでした。この都についてはすでに、神的なダビデがいっておりますように、かずかずのえあることが(主によって)語られていたのであります。かれはこういっております。「神の都よ、あなたについては、(すでに)かずかずの栄えあることが(主によって)語られました[3]」と。では、この、目には見えず限定されず、すべてのものをご自身ののうちに納める神さまの[4]、この都をどのように理解すればよろしいでしょうか。ただこの都だけが、神さまの超実体的なみ言葉を、本当に超自然的かつ超実体的に、しかも(神が)限定されないような仕方で受け容れたのではないでしょうか[5]。そしてこの都については、かずかずの栄えあることが、主ご自身によって語られました。であれば、(この都が)神さまの<に定められたの>み旨を受け容れたということよりも栄えあることが、なにか他にあるでありましょうか。



[1] Pr.10,7(LXX).

[2] Ps.116,15.

[3] Ps.87,3.

[4] Cf.Is.40,12.

[5] Poi,an ga.r evklhyo,meqa po,lin tou/ avora,tou kai. avperigra,ptou Qeou/, tou/ ta. pa,nta th/| ivdi,a| draki. perie,contoj, avll’Vh] th.n mo,nhn o;ntwj u`perfuw/j kai u`perousi,wj to.n u`perou,sion tou/ Qeou/ Lo,gou avperigra,ptwj cwrh,sasan