第二部

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マリアのご死去

  おお・・・、一体どのようにしての源は、死のただなかをとおって生命へと導かれたのでありましょうか。ああ・・・、ご出産のときに自然の限界を越えたあの乙女は、一体どうして今になって、この自然の法則に服従し、汚れのないおん身体を死のもとに服属させたのでありましょうか。それは、乙女が(自ら死ぬことによって)死すべきものそれ自体を取り除き、不滅を身にまとわねばならなかったからであります。自然のおん支配者[1]も、死の体験を拒まれなかたったのです。主は、肉において死なれましたが、死によって死を滅ぼし、腐敗に不滅を恵み与え、死の原因となるもの[2]を復活の源としたのであります[3]。おお・・・! いたいどのようにして万物の造り主は[4]、神さまを受け容れた幕屋から離れようとする(マリアさまの)神聖なる魂を、道理にかなった仕方でいながら、ご自身の両のおん手のなかに迎え入れたのでありましょうか。万物の造り主は、大海原のように途方もなく大きな人類愛に促されて[5]、この生まれながらにはしためであった(乙女の)魂を、救済のご計画に従って[6]ご自分の母とし、本当に受肉されたのでした。受肉をったりしたのではございません[7]。そして、ああ・・・! 天使たちの軍団が、あなたさまの、人間たちとの死別を[8]、いまかいまかと固唾を飲んで見守り、待ち構えております!

  おお、なんという美しいご死去[9]でありましょう! このご死去は、神さまのおんみもとでの暮らし[10]をもたらすものなのであります。なるほど、神の霊に満たされて神さまのおん前にお仕えするすべてのしもべたちにも、これと同じ暮らしが与えるられとしても    実際にこの暮らしは与えられるものだと、わたくしたちは信じておりますが    しかし、神さまのしもべたちと(神さまの)おん母とのあいだには、無限の違いがあるのでございます。それでは、あなたさまをめぐるこの神秘を、わたくしたちはなんと名づければよいのでしょうか。死でありましょうか。しかしあなたさまのまったく神聖で至福に満ちたおん魂が、たといあなたさまの汚れなく幸せそのもののおん身体から自然の法則に従って[11]切り離されることになろうとも、そして、たといおん身体がに従って埋葬に付されようとも、あなたさまのおん身体はしかし、死のなかにそのまま捨て置かれることはなく、また、腐敗によって分解されることもないのです。事実、ご出産に際してもその処女性は、なわれずに残ったのですから、神のおん母がご逝去しても、そのおん身体は分解をれたのであります。そして、このおん母のおん身体は、死によって損なわれることなく代々とこしえに永続する、いっそう神的でいっそう優れた幕屋のなかへと移されたのであります。

  四方に常に光を発し続ける太陽は、月の本体によっていっとき隠されますと、どういうわけか(その月の本体によって)欠けてしまい、暗がりに覆われ、陽光のかわりに暗闇を帯びたように見えますが、しかし太陽それ自体から、それに固有の光が奪われてしまうことはありません。むしろ太陽は、それ自体のなかに、光を永遠にほとばしり出す源を持っているのであります。いやむしろ太陽は、それをお造りになった神さまがお定めになったように、むしろそれ自体が光の尽きることのない源となっているのであります。これと同じようにあなたさまも、の光の尽きることない源、生命そのものの満ちあふれる宝物殿[12]、惜しみない祝福の放出、わたくしたちに対するすべての善のとりなし手であり、その提供者[13]なのであります。たといあなたさまが、ほんのひとときのあいだにせよ、身体的な死に覆われるにしても、そうであります。実にあなたさまは、無限の光、不滅の生命[14]、清く滔々流れゆく絶えざるの幸福の大河、恵みの流水、かずかずのやしの源、永遠に流れ続ける祝福を、このわたくしたちのために惜しみなくほとばしりだしてくださるのであります[15]! 実にあなたさまは、「あたかも林の木々に囲まれたリンゴの木のように[16]」開花なさったのです。そしてあなたさまのおん実りは、信者のひとたちの上顎のなかでとろけるように、実に甘いのです! こういうわけですから、わたくしたちは、あなたさまの神聖なるご逝去を、ご死去だとは申し上げません。むしろあなたさまの神聖なるご逝去は、ご就寝ないしはご出立、あるいはご移住と申し上げたほうが、より適切なのであります[17]! 実にあなたさまは、身体に属するかずかずの制約[18]からご出立され、かずかずのより優れたもののなかへとご移住なされたのであります[19]



[1] o` despo,thj th/j fu,sewj

[2] h` ne,krwsij

[3] Cf. 1 Co.15,53;聖パウロが復活一般について述べていることはキリストにおいて実現され、マリアによって先取りされた。この聖書箇所は、la Bulle de définition de l'Assomption(AAS 42,1950,p.768)にも引用されている。

[4] pantourgo,j

[5] fi,lanqrwpi,aj avnexicnia,stoij pela,gesin; Cf.Ti.3,4;ナジアンゾスの聖グレゴリオス、第12教話、第38教話および『正統信仰論』3,1を参照せよ。筆者は、受肉に先立つ神の無限の愛をしばしば強調している。

[6] oivkonomikw/j

[7] ouv fenaki,saj th.n evnanqrw,phsin

[8] th.n sh.n evx avnqrw,pwn avpobi,wsin

[9] evkdhmi,a

[10] evndhmi,a

[11] fusikw/j

[12] o` avda,panoj th/j auvtozwh/j qhsauro,j

[13] h` pa,ntwn tw/n avgaqw/n h`mi/n aivti,a kai. pro,xenoj

[14] avmbro,sia zwh,

[15] これらの、源や河や光といった隠喩は、聖書に根拠を置いており、マリアが受肉という一事によってすべての善の源になったことを証拠立てている。

[16] Ct.2,3.

[17] VEnteu/qen ouv qa,naton th.n i`era,n sou meta,stasin le,xomai( avlla. Kkoi,mehsin h] evkdhmi,an h] evndhmi,an eivpei/n oivkeio,teron)

[18] ta. tou/ sw,matoj

[19] この節の主要な文脈とそれを決定する言葉のいくつかは、2 Co.5,8に由来している。パウロはこの箇所で、身体から主のみ許への脱出の願望を、evkdhmh/sai(evndhmh/saiという言葉を使って表明している。その他、He.11,16を参照せよ。