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奉献と祈り

 (ですから、ここにいる)わたくしたちも、、ああ、女王さま! もう一度わたくしは申し上げます、ああ!女王さま! 神の未婚のお母さま! わたしくしたちもあなたさまのお膝元にたたずみながら、各自の魂をあなたさまの(人類救済の)ご意向に固く結び付けたく存じます。そしてわたくしたちは、もっとも堅固でもっとも強靭係留するかのごとくに[1]、(わたくしたちの)精神と魂と身体とを、(要するに)わたくしたちのすべてをあなたさまにお捧げする所存であります。わたくしたちは、「かずかずの讃歌、賛美歌、そして、霊的な頌歌をもって[2]」、力のかぎりあなたさまを誉めたたえます。実際、あなたさまをふさわしくたたえることは、かなわぬことでありますが、神聖なみ言葉がわたくしたちに教えてくださったように、同僚のしもべたち敬意を払うことが、かれらに共通する主人への敬意のにもなるとすれば、あなたさま、他ならぬあなたさまのご主人をお産みになったそのあなたさまに対する敬意が、どうして等閑にされてよいのでしょうか。どうしてそのような敬意が熱望されないでありえましょうか。どうしてそのような敬意が、この生きていくうえで絶対に欠かせない息吹それ自体よりも尊ばれないことがありましょうか。この敬意は生命をもたらすものでありますのに! このようにしてわたくしたちは、わたくしたち自身の主に対して、なお一層の敬意を表明することができるのであります! しかし・・・、わたくしは、主に向かってなにを申し上げようとしているのでしょう。あなたさまをしく追悼申し上げるわたくしたちにとっては、万金にも値するこのあなたさまへの追悼という賜物だけでもう充分なのであります。なぜと申しますと、この追悼の賜物は、不滅の歓喜の絶頂となっているのですから。一体自分の悟性[3]を、あなたさまへのまったく聖なる追憶を納める貯蔵庫とした者が、どのような歓喜にも、どのような善にも満たされないことがあるのでしょうか。

 これまで申し述べましたことは、あなたさまへのわたしたちの感謝の言葉、わたくしたちの言論の初穂、わたくしたちの貧弱な悟性の極上精華であります。そしてわたくしたちの悟性は、あなたさまへの愛惜の念に動かされて、自分の弱さをすっかり忘れてしまいました! しかし・・・、どうかこの愛惜の念を恩情厚くお受けいれください! このわたくしたちの身にあまる愛惜の念をお察しになって、これをどうかお受けいれください! そしてあなたさま! しみ深い女王さま! 慈しみ深い主をお産みになられたお母さま! どうかわたくしたちにおん目をとめて、わたくしたちの身の回りの営みをお望みのままに導きめてください! わたくしたちのに恥ずべき情念から生じる衝動らげてください! (わたくしたちを)神的なみというんだ港へとお導きください! (わたくしたちを)来るべき至福にふさわしい者にしてください! あなたさまをとおして肉体をお取りになった神であるみ言葉のみ顔から輝きでる甘美な光を受けるにふさわしい者としてください[4]

  神であるみ言葉とともに、おん父に、至聖にしていつくしみ深く、生命を与えてくださる聖霊との交わりのうちに、栄光と誉れと力と威厳とが、そして、壮麗な輝きが、今も、いつも、代々かぎりなくありますように。アーメン。



[1] 人類の手付けとして天にお入りになられたマリアは、わたしたちの被昇天の希望を確かなものにする。『ヘブライ人への手紙』6,19が、錨の象徴とともに、われわれの先駆者として天の幕屋に入られたキリストについて語るのも、この被昇天の希望である。

[2] Ep.5,19;Col.3,16.

[3] dia,noia

[4] Cf.Ps.67,2;119,135.