受肉の展望におけるマリア

  しかしわたくしたちは女王さまに向かって、どんなことを申し上げればよいでしょうか。一体どのような言葉で、ご挨拶を申し上げればよいでしょうか。またどのような賛辞で、あなたさまの神聖で栄光に輝くおん頭をお飾り申し上げればよろしいでしょうか。おお! いつくしみをわる女王さま! 豊かな富をお与え下さる女王さま! 人類の栄華! 全被造物の誇り! 全被造物は、この女王さまをとおして祝福を受けたのであります! と申しますのは、全被造物は、以前には収容することができなかったおん方を、あなたさまをとおして収容することができるようになったからであります! 全被造物が視線を注ぐことができなかったおん方を、「顔の覆いを除かれて[1]」鏡をのぞくように見ることができるようになったのです! ああ・・・! 神のみ言葉! 呂律の回らぬわたくしたちの口をお開きください! わたしたちの開かれた唇のなかに、恵みに満ち満ちたお言葉[2]をお与えください! わたくしたちに(聖)霊の恵みを吹き込んでください! この(聖)霊の恵みによって漁師たちは、雄弁に語り、この(聖)霊の恵みによって読み書きのできなかった者たちは、人間を超える知恵[3]を語るのです! このようにしてわたくしたちは、下手な者であるにもかかわらず、あなたさまの最愛のおん母のかずかずの素晴らしさを、どうにもげにではありますが、お語り申し上げることができるようになるのです!

  実にあなたさまのおん母は、おん父なる神さまのあらかじめ決定されたご計画とご好意とによって、の代々のひとびとのなかから選び出されました。そしておん父なる神さまは、あなたさまを、無時間的かつ非流出的に、そして非受動的に[4]お生みになったのです。そして今度は(マリアさまが)あなたさまを、なだめの供え物、救い、正義、あがない、生命からの生命、「光からの光」、「まことの神からのまことの神」であるおん方として、そして、「もろもろの時の最後に[5]」かのじょから肉体をおとりになられたおん方として、ご懐妊なされたのであります。あなたのお母さまのご出産は逆説に満ちたもの、その自然を超え(人間の)想いを超えたご誕生は宇宙に救いをもたらすものでありましたが、さらにそのご就寝[6]は、栄光に包まれていて、本当に神聖なるもの、あらゆる点でまったく賞賛に値するものなのであります。

  おん父なる神さまは、このようなおん母をあらかじめお定めになりました。そして預言者たちは、聖霊をとおして、このおん母のことをまえもって語りました。そしてこの(聖)霊の聖性をもたらす力が、(かのじょを)訪れ、清め[7]、そして、聖なるものとしたのです。いわばこの力は、(かのじょに)水を注いだのであります。そしてまさにそのとき、「おん父の定義であり表現である[8]」あなたさまが、限定されざる仕方で(このお母さまの胎内に)お宿りになり、どん底の状態[9]にあったわたくしたちの本性を、あなたさまの把握されざる神性の、測りがたい高みへと呼び戻されたのであります。(すなわち)あなたさまは、このようなわたくしたちの本性の初なりを、聖なる乙女の、まったく清く、汚れなく、そして、まったく非の打ちどころのないおん血からお受け取りになり、理性的で知性的な魂によって生かされる肉体をご自身のために固められたのです。そしてあなたさまはこの肉体を、あなたさまご自身のうちに個別的に存在させ[10]、完全な人間となったのであります。しかしあなたさまは、完全な神さまであることと、あなたさまのおん父と同一実体で[11]あることとを振り捨てたりはなさいませんでした。むしろあなたさまは、それに加えて、いうにいわれぬ優しいしみのによって[12]、わたくしたちの弱さを、お引き受けになられたのであります。そしてあなたさまは、このお母さまから、唯一のキリスト、唯一の主、唯一の神なるおん子にして人間、完全なる神であると同時に完全なる人間、き神にして全き人間として進みでられたのです。つまりあなたさまは、神性と人間性という完全なる二つの本性を統合した一つの個別的自存者として、しかも神性と人間性という完全なる二つの本性において進みでられたのであります[13]。(ですから)あなたさまは、(なんの特性もお持ちにならない)裸の神さまでもなく、また(無防備な)たんなる人間でもございません。あなたさまは、神さまの唯一のおん子であるとともに受肉された神、ご自身が神であると同時に人間なのです[14]。そしてあなたさまは、(それらの)混合を認めず、また、(それらの)分裂も許されないおん方[15]。あなたさまは、混合されず分かたれざる仕方で位格的に統合された、実体を異にする二つの本性のそれぞれの本性的諸特性を、ご自身のうちに担っておられるのであります[16]。それぞれの本性的諸特性とはすなわち、被造性と非被造性、可死性と不可死性、可見性と不可見性、限定性と非限定性、神的な意思と人間的な意思、神的な働きと人間的な働き、二つの自由意志、すなわち、神的であるのと同様に人間的でもある自由意志、かずかずの神的な奇跡とともに人間的な諸情念のことで、あなたさまはそれらを、ご自身のうちに担っておられるのであります。ここでわたくしは、人間的な諸情念と申し上げましたが、もちろん、自然的でめだてのない諸情念のことをいっております[17]

  実に主よ! あなたさまは、罪を犯す以前の最初のアダムのすべてを、罪を免れていたアダムの全体を、あなたさまのれみのゆえに[18]、お引き受けになられたのです。あなたさまは、このわたくしのすべてに救いを恵もうとして、身体、魂、精神、そして、それらに属するかずかずの本性的な特性をお引き受けになれたのであります。実に、「引き取られなかったものは、癒されえない[19]」という言葉は、真実だからであります。こうしてあなたさまは、「神と人間たちとのあいだの仲介者[20]」となり、憎しみを取り除き、離反した者たちをあなたさまのおん父のみもとへと導いてくださったのです。そして、迷えるものを立ち返らせ、闇のなかにいるものを照らし、砕かれたものを修復し、朽ちるものを不滅へと変え、また、多神教の誤謬から被造物を解放してくださったのです。そしてあなたさまは、人間たちを「神の子ら[21]」とし、まされていた者たちがあなたさまの神的な栄光にともにかるのだと、宣言してくださったのであります。さらにあなたさまは、罰として地下の諸領域[22]に送られた者を、「すべての支配の霊と権威の霊の上に[23]」導き昇りました。そして、土に帰り[24]黄泉に住め[25]と断罪された者を、王の玉座に、あなたさまご自身において、座らせてくださったのであります。そうであれば、このような(人間の)理解と把握の一切を超える限りないしみの業の行われる作業場となったのは、一体だれでありましょうか[26]! それはあなたさまをお生みになったあの永遠の乙女ではないでしょうか!



[1] 2 Co.3,18.

[2] Cf.Ep.6,19.

[3] Cf.1 Co.2,6.

[4] avcro,nwj, avrreu,stwj te kai. avpaqw/j

[5] 1 P.1,20.

[6] koi,mhsij;永眠のことである。

[7] 懐妊の瞬間のこのマリアの「清め」は、聖霊の特別な訪れに伴う恵みの増加を意味している。しかしこれは、マリアがその存在の始めから純潔であったことに反しない。ダマスコの聖ヨハネは、その他のすべての諸教父とともに、このマリアの最初からの純潔を明言している。

[8] o` tou/ Patro.j o[roj kai. lo,goj;この定式は、ナジアンゾスの聖グレゴリオスの『復活祭第二教話』(PG 36,633)から引かれた。おん子は、おん父の完全な像としておん父を現わすかぎりで、「おん父の定義」と呼ばれている。「定義」と「表現」は、この場合、同義語として扱われている。グレゴリオスは、『第四神学教話』30(PG 36,129)で、次のように述べている。「おん子のおん父に対する関係は、み言葉の精神に対する関係と同じであるがゆえに、おん子はみ言葉と言われる。しかもそれは、おん子の誕生が変化の原因になっていないということによってばかりでなく、おん子とおん父の緊密な絆と、おん子がおん父を表現する能力とによってなのである。それゆえ、おん子は、定義される対象に対する定義のようなものであるということができよう。なぜなら、定義は、み言葉ともいわれるからである。… おん子は、おん父の本性を迅速かつ容易に知らせる。なぜなら、生み出されたものはどれも、それを生み出したものの無言の定義となっているからである」(J.Plagnieux, S.Grégoire de Nazianze, théologien, Paris 1952, p.302からの和訳)

[9] evscatia,

[10] evn seautw/| auvth.n u`posth,saj

[11] o`moou,sioj

[12] diVeuvsplagcni,an a;faton;これは、受肉の経綸の源にある神のいつくしみの非常に強い表現である。このギリシア語euvsplagcni,aは、70人訳聖書にも新約聖書にもないが、この「神のいつくしみの腸」(entrailles de la miséricorde de Dieu)は、聖書に述べられている救済史の底流をなすとみて差し支えない。聖パウロは、Ep.4,32で、神がおん子のをこの世に遣わしたことを例に引いて、信者に相互愛を勧める際に、この語の形容詞形euvspla,gcnojを用いている。なお、このような「神の慈しみの腸」を護教論の全面に押し立てて、神概念を解明した古代キリスト教界最大の著作家は、オリゲネスである。オリゲネスは、慈しみの説教者、慈しみの司祭、慈しみの教会著作家といってよかろう。松丸太、「オリゲネスにおける神の痛みのオイコノミア」(『日本の神学』第33号、教文館、1994年、71頁以下)を参照せよ。

[13] Kai. proh/lqej evx auvth/j ei=j Cristo.j, ei=j Ku,rioj, ei=j Ui`o.j Qeo.j kai. a;nqrwpoj o` auvto,j, Qeo,j te o`mou/ te,leioj kai. a;nqrwpoj te,leioj, o[loj Qeo.j kai. o[loj a;nqrwpoj, mi,a u`postasij su,nqetoj, evk du,o fu,sewn teleiVwn qeo,thto,j te kai. avnqrwpo,thtoj, kai. evn du,o telei,aij fu,sesi qeo,thti, te kai. avnqrwpo,thti

[14] ouv gumno.j Qeo.j ouvde. yilo.j a;nqrwpoj, a;llVei=j Ui`o.j Qeou/ kai. Qeo.j sesarkwme,noj, Qeo,j te auvto.j o`mou/ kai. a;nqrwpoj

[15] ouv su,gcusin u`posta.j ouvde. diai,resin u`pomei,naj

[16] fe,rwn evn e`autw/| tw/n e`teroousi,wn du,o fu,sewn kaqVu`po,stasin avsugcu,twj a[ma kai. avdiaire,twj h`nwme,nwn ta.j fusika.j ivdio,thtaj

[17] to. ktisto.n kai. to. a;ktiston, qnhto.n kai. to. avqa,naton, to. o`rato.n kai. to. avo,raton, to. perigrapto.n kai. to. avperi,grapton, qei/on te qe,lhma kai. avnqrw,pinon qe,lhma, qei,an evne,rgeian, ouv mh.n avlla. Kai. avnqrwpi,nhn evne,rgeian, auvtexou,sia, te du,o, qei/on w`sautwj kai. avnqrw,pinon, ta, te qei/a qau,mata kai. ta. avnqrw,pina pa,qh, ta. fusika, fhmi kai. avdia,blhta

[18] dia. ta. spla,gcna evle,ouj sou; cf. Lc.1,78:Canticum B.V.Mariae

[19] ナジアンゾスの聖グレゴリオスの第101書簡(クレドニオスへの第一の手紙:PG 37,181)を参照せよ。なお、このグレゴリオスは、この第101書簡と第102書簡で、アポリナリオス派の人々に反対して、キリストの人性の完全性を弁護している。それは、人間の全面的な贖いに必要だからである。

[20] 1 Tm.2,5.

[21] Jn.1,12;1 Jn.3,2.

[22] ta. th/j gh/j katacqo,nia

[23] Ep.1,21.

[24] Cf.Gn.3,19.

[25] to.n a[|dhn oivkei/n;Cf. Ps.94,17;Jb17,13.

[26] Ti,j ou=n tw/n avpei,rwn tou,twn avgaqw/n, tw/n u`pe.r pa,nta nou/n kai. kata,lhyin, evrgasthrio,n ge,gonen*