マリアのご両親

  ヨアキムとアンナが、かのじょのご両親であります。ヨアキムは、羊の牧者のようにかずかずの(自分の)考えをり、それらの考えを権威をもって望むところに導きます。そしてかれは、その点で(他の)羊飼いにひけをとりません。実にヨアキムは、主なる神さまのもと一頭の羊として牧されていたので、かずかずのもっとも善きものに事欠かなかったのであります。しかしわたくしが(ここで)、多くの人の心に思い浮かぶようなものを、もっとも善きものといっているのだと、だれも思わないようにしてください。そういったものは、貪欲な人間たちの思いなしが、いつももの欲しそうに眺めているもので、本性上長続きのするようなものではなく、それを獲得したひとをより善き者に仕上げることもできないものなのであります。現在の生活のかずかずの快楽、それらは永続的な価値を獲得することができず、おのずから崩れ落ち、たちどころに消え去っていくものなのです    たといそれらの快楽をあり余るほど多く手にしたとしても、です。ですからこんなものを、わたくしがもっとも善きものといっているなどと、思わないようにしてください。とんでもない話であります。現世のかずかずの快楽に賛嘆することなど、わたくしたちのすることではございませんし、主を畏れる者たちの取り分でもないでありましょう。むしろ(わたくしの語っている)かずかずのもっとも善きものとは、健全に思慮するひとたちにとって本当に願わしく愛らしいもので、永遠に存続し続け、神さまを喜ばせると同時に、それらを獲得したひとたちに、その折々の果実を生じさせるものなのであります    わたくしは、徳のことをいっておるのです。そしてそれらの徳は、そのふさわしい時機に果実をもたらしてくれるでありましょう[1]。すなわち、るべき代において、永遠の生命を与えてくれるでありましょう。労苦を惜しまずふさわしく働き、自分たちにできるかぎりの労働を(神さまに)お捧げしたひとたちに対しては・・・。なぜなら、労苦が先に来て、永遠の生命は後に続くものだからであります。ヨアキムは、自分の心のなかで、まるで「若草にえる緑の牧場のなかに」でもいるかのように、かずかずの自分の考えを手慣れた仕方で牧したのです。かれは、かずかずの神聖な託宣の観想のなかにとどまりながら、(それらの考えを)神的な恵みという「いの水辺で」楽しませ、また、(それらを)かずかずの馬鹿げた事柄から引き離しながら、「正義の小道へと[2]」導いたのであります。

  他方、アンナは    (この名前は)恵みと解釈されますが    かのじょは(ヨアキムに)劣らず、同じ品性を保ち、(かれの)伴侶となっておりました。そしてかのじょは、かずかずの善きものをほしいままにしていました。ところがかのじょは、なにかしら神秘的な理由によって、不妊の病にとらわれていたのです。実に恵みは、人間たちのもろもろの魂のなかに実を結ぶことができないとき、本当に不毛となったのであります。実際、「すべてのひとが、わき道にそれ、愚かな役たたず者となっていました」。「理解力のある者」はおらず、「神さまを探し求める者[3]」はいませんでした。こうして、しみ深い神さまは[4]、このような状況をご覧になって、ご自身のみ手になる被造物をあわれに思い[5]、これをもう一度救おうと望まれたのです。そして神さまは、恵みの不毛、すなわち、神的な思いのく敬虔なアンナの不妊を解消し、アンナは女の子を産んだのであります。しかしこの子は、これまでに生まれた女の子のようでもなく、また、もう二度と生まれてこない(不世出の)女の子でもあったのです。そればかりではありません。この不妊の解消は、善を産み出すことのできなかった宇宙的な不毛が解消し、言いようのない至福のがやがて実を結ぶことを、この上もなく明瞭に示したのであります[6]



[1] Cf.Ps.1,3.

[2] Ps.23,2,3.

[3] Ps.14,2.3.

[4] o` avgaqo.j qeo,j

[5] kakoikteirh,saj th/j oivkei,aj keiro.j to. plastou,rghma

[6] 罪によって引き起こされた不毛・不妊はマリアの誕生によって終わりを告げ、キリストの到来がこの世に再び豊饒をもたらすのである。