冒瀆者に関する逸話13
当然、ユダヤ人たちもその場に居合わせておりました。かれらは一概に、まったくの愚か者だとは言えないのであります。ここで、多くの人々の唇に上た話を、目下の教話に調味料のように混ぜ合わせても、場違いにはならないでありましょう。次のように言われております。
神のおん母の祝福されたお身体を担いでいた人たちが山の坂道を降っていたとき、罪の奴隷となり誤謬と契りを結んだあるヘブライ人が、わたしたちの神であるキリストさまの神々しく王的なみ顔を打ちたたいたカヤファの召し使いよろしく、悪魔の道具となっていました。かれは、向こう見ずで無思慮な衝動に駆られ、悪魔に促されながら、あのこの上もなく神的な幕屋に襲い掛かりました。しかもこの幕屋は、天使たちが畏れかしこみつつ近づいた幕屋であります。そしてかれは、愚かにも狂気に駆られ、この寝台を両手で掴み、地面に引きずり下ろそうとしたのであります。この暴挙はまさに、悪の支配者の妬みによるものでした。ところが、これらの仕業の実りは早く訪れました。かれは、自分の決断にふさわしく、苦いブドウの実を収穫したのであります。なぜならかれは、人々の公言するところによれば、両手を失ってしまったからであります。しかし、この馬鹿げた暴挙をみずから企て、両手をたちどころに落としたその男は、最後には回心し、信心と悔い改めの心を起こしたのであります。なぜかと申しますと、寝台を運んでおりました人々が不意に立ち止まり、その哀れな男が生命の源であり奇跡の産みの親である幕屋に[1](切り残った)手で触れたとき、たちどころに(その男の)切断された手が癒されたからであります。
実に、災いは、癒しと救いをもたらす多くの決断を産み出すことができるのです。しかしわたくしたちは、話をもとに戻すことにいたしましょう。