第三部

被昇天の理由

 

  たしかに、神さまにふさわしいこのお住まい、罪の赦しの水をき出す手付かずの、天のパンをもたらす未耕の大地、水も注がれないのに不死身らすブドウの木、常に青々としてみごとな果実を実らすおん父のれみのオリーブ(であるマリアさま)は、大地のしい穴のなかに閉じ込められるべきではなかったのです。かえって、かのじょによって神であるみ言葉と位格的に結合した聖にしてれなき(イエズスさまの)おん身体が、三日目に墓から復活したのと同じように、かのじょもまた、お墓のなかから引き上げられ、おん母として、おん子と同じように変えられていったに違いないのであります。加えて、おん子がおん母のもとにお降りになられたように、(おん子に)寵愛されたおん母もまた、「さらに大きく、さらに完全な幕屋[1]」へと、「天そのもの[2]」へと上げられていかねばならなかったのであります[3]

  神であるみ言葉をご自分のご胎内に迎え入れたおん方は、ご自身のおん子の幕屋の中にお住みにならなければならなかったのです。そして主が(自分は)おん父の家の中にいなければならないと言われたように、おん母もまた、おん子の宮殿のなか、「主の家のなか、われらの神の家の中庭に[4]」お住まいにならねばならなかったのであります。実際、かのおん方のうちに、「すべてのひとの住まい[5]」があるとすれば、歓びの原因はどこにあればよろしいのでありましょうか。

  ご出産に際して処女性を無傷のままたれた乙女は、そのおん身体を死後も不滅のまま保持されているに違いないのであります[6]

  創造主をご胎内の胎児としてお宿しになった乙女は、神の幕屋のなかでお過ごしになるのは当然なことだったのであります。

  おん父が嫁としてお取りになった花嫁は、天の部屋でお過ごしにならねばならなかったのです。

  ご出産のとき痛みをれたおん母は、十字架にかけられた我が子をの当たりにし、苦しみのに心を刺しかれたのですから、おん父のらにお座りになって(おん子を)ご覧になるのは当然だったのであります。

  神のおん母がおん子の持ち物を所有するのは当然であり、すべての被造物から神のおん母、神の下女して崇敬されるのは当然だったのであります。なるほど遺産というものは親から子へと伝えられていくのが常でありますが、しかし今の場合には、ある賢者が申しておりましたように、神聖なる川の源は、その上流にるものなのであります。実におん子は、ご自分のおん母に、すべての被造物を服属させたのであります[7]



[1] He.9,11.

[2] He.9,24.

[3] キリストがマリアとの間に結ぼうと臨んだ緊密な一致は、マリアをご自分の全運命に与らせるというキリストのご意思を表している。マリアはキリストの後に従って、天の聖所に入らなければならない。この段落後半の二文のギリシア語原文は次の通り。

 avllVw[sper to. evx auvth/j tw/| Qew/| Lo,gw| evnuposta.n sw/ma to. a[gion kai. avkh,raton( th/| tri,th| hvmera| tou/ mnh,matoj evxani,stato( ou[tw dh. kai. tau,thn evxarpasqh/nai tou/ ta,fou kai. pro.j to.n ui`o.n th.n mhte,ra meqarmosqh/nai( kai. w[sper auvto.j pro.j auvth.n katabe,bhken( ou[twj auvth.n th.n profilh/ pro.j auvth.n avnafe,resqai th.n mei,zona kai. telewte,ran skhnh,n(<<ei,j auvto.n to.n ouvrano,n>>.

[4] Ps.134,1;135,2.

[5] Ps.87,7(シオンの讃歌).

[6] 処女懐胎は、神が生神女に留保しておかれた例外的かつ新しい境運のしるしである。この一文から、数節後の「神のはしためとして崇敬されるのは当然だったのであります」までは、大勅書『Munificentissimus(AAS, t.42, 1950, p.761)に引用されている。

[7] マリアの宇宙的な卓越性は、キリストが息子としての愛のゆえにお望みになった善の分与の結果である。