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賛美への招き

 

  わたくしたちは今日、それもキリストの民であると呼ばれるまでに豊かにされたわたくしたちは、今日、そのような乙女をかずかずの神聖なる讃歌をもっておび申し上げているのであります。わたくしたちはそのような乙女を、夜通し立っておうではありませんか。そのような乙女を、魂と身体の清さをもって歓ばせようではありませんか。かのじょは本当に神さまに次いで清いお方で、すべてのものを凌駕しているのであります。似たものが似たものを歓ぶというのが、ものの常でありましょう[1]。わたくしたちは、貧しい人たちへのかずかずのれみと同情とをもって[2]、そのような乙女を敬おうではありませんか。実際、神さまが、憐れみによってのみ敬われるものだとすれば、神さまのおん母も憐れみと同類のものによって美しく輝けるものになるのだということに、一体だれが異議をえるでありましょうか。かのじょは、わたくしたちに対する神さまの、言語を絶した愛の深みを万民のものにされたのです[3]



[1] pe,fuke ga.r pwj toi/j o`moi,oij ta. o[moia evpaga,llesqai

[2] evle,w| kai. sumpaqei,a|

[3] Au]th th.n a;fato.n th/j to/u Qeou/ pro.j h`ma/j avga,phj evdhmosi,eusen a;busson; 作者は、マリアの霊的態度として、完全な清らかさと共に、貧しい者たちに対する同情を強調している。この同情は、受肉によって露わにされた神の言語を絶した慈しみに結びつけられている。