至聖なる乙女の模倣19
ではわたくしたちは、この墓所に向かってなんと応えればよいでありましょう。あなたの恵みはとこしえに続き、尽きることがございません。神の力は、場所によって限定されることもなければ、神のおん母のかずかずの善行も場所によって限定されるものではないのです[1]。もしも神のおん母の善行が、この墓所だけに限られるものであれば、その賜物は、わずかの人たちにしか与えられなかったでありましょう。ところが今や、その賜物は、宇宙の隅から隅に至るまでふんだんに分け与えられたのであります。ですからさあ、わたしたちは、わたくしたちの記憶を神のおん母の寝室にしようではありませんか。ですが、これはどういうことなのでしょう。かのじょは乙女でした。そしてかのじょは乙女であることを愛しました。かのじょは生まれつき汚れないお方で、純潔を愛しておられました。であれば、もしもわたくしたちが、この身体とともに記憶を汚れないものとすれば、かのじょのみ恵みは必ずや、(この身体のなかに)宿り、わたくしたちはそのお恵みを手に入れることができるのではないでしょうか。かのじょは、あらゆる汚濁を逃れ、不浄な情念を遠ざけました。吝嗇を嫌い、醜い姦淫の情欲を憎しんでおりました。そしてこの恥ずべき姦淫の忌まわしい想いを、半身半獣の怪物の落し子ででもあるかのように逃れたのであります。破廉恥で扇情的な言葉や詩歌を退けられました。かのじょは、娼婦の香水を振り払ったのです。
神のおん母は、激情の爆発を嫌い、非人間的な残忍さと争いを受け付けませんでした。徒労に終わる虚栄を押し返し、人を蔑む高慢に敵対します。かのじょは、救いの敵である怨恨を嫌います。すべての悪を致命的な猛毒と見なし、これらの悪と反対のものをお喜びになったのです。対立するものが、対立するものの癒しとなるのです[2]。かのじょは、節制や慎み深さそして讃美を喜びました。純潔と処女性と賢明さに喜びを見出しました。また、これらのもに永遠の平和を付け加え、それらを心の底から歓迎したのです。平和と優しい心遣いを深く愛し、愛と憐れみと謙虚さを、ご自分の子どもでもあるかのように愛おしみました。掻い摘んで申せば、かのじょは、すべての悪にうつむき悩み、かえってすべての徳を、ご自分にあたえられた賜物でもあるかのようにお喜びになったのであります。
ですからわたくしたちは、以前のかずかずの悪を雄々しく遠ざけ、もろもろの徳を愛し求め、それらを伴侶としようではありませんか! そうすれば(神のおん母は)ご自分のしもべたちのところにしばしば来てくださるでありましょう! そのときかのじょは、あらゆる善人たちの集団を引き連れてくるでありましょう! ご自身のおん子キリストを伴われて、わたくしたちの心のなかにお住まいになるすべての人たちの王にして主であるキリストさま[3]を伴われて。栄光と力と誉れ、そして威厳と壮麗さとが、元なきおん父と聖霊とともに、いまもいつも世代にいたるまで、キリストさまにありますように。アーメン。
[1]
ouv
to,poij h` qei,a periori,zetai du,namij( ouvde. ai` th/j qeomh,toroj
euvergesi,a
[2]
Ta.
ga.r evanti,a tw/n evnanti,wn i`a,mata)
[3]
Cf.Ep.3,17.