死の退散

  そればかりではありません! 死もこの乙女を見て、づいたのです。なぜなら(かつて)死は、かのじょの息子に手を掛けて痛い思いをし、それを教訓に慎重になるこを学んでいたからであります[1]。かのじょにとって、黄泉への陰惨な下り坂[2]はないも同然でした。まっすぐでらかな、そして歩みやすい天への道[3]が準備されていたのです。実際、生命であり真理であるキリストさまが、「わたしのいるところに、わたしのしもべもいるであろう」とおっしゃったのであれば、どうしてかのおん母が、キリストさまと一緒にお住まいにならないことがありましょうか[4]。マリアさまは、「産みの苦しみを味わう前に、ご出産なさったのです[5]」。そのうえかのじょは、なんの苦しみもなしに、ご他界なされたのです[6]。(これに対して世の)「たちの死は、まわしいもの[7]」でありますのに・・・。しかしかのじょにおいては、「罪という死のとげ[8]」は滅ぼされているのです。であれば、このような神のおん母に対して、終わりなく続く卓越した生命のがある!と言う他に、一体なにをわたくしたちは言えばよろしいでありましょうか! 万軍の神なる主に忠実な者たちの死は、本当に貴重なもの[9]。であれば、神のおん母のこのご帰天は[10]、はるかに貴重なものでありましょう!



[1] Tw/| ga.r auvth/j Ui`w/| prosbalw,n( e;maqen avfVw-n e;paqe( kai. pei,ra| maqw.n seswfro,nistai)

[2] a[|dou ))) ai` zoferai. ka,qodoi

[3] h` pro.j ouvrano,n porei,a

[4] Jn.12,26;cf.Jn.14,3; おん子との並外れた親密さが、乙女マリアの幾多の特権、特に被昇天の理由となる。

[5] Is.66,7.

[6] evkto.j wvdi,nwn kai. h` auvth/j avpobi,wsij

[7] Ps.34,22.

[8] 1 Co.15,56.

[9] Cf.Ps.116,15.

[10] h` meta,stasij