生前のイヴとマリア

  そのむかし、主なる神は、不従順のブドウ酒をたらふく飲み、過失の酩酊に心の微睡ませた死すべき人間の創始者(であるアダムとエバ)を、エデンの園から追放者として立ち去らせました。そしてかれらは、罪という放蕩に悟性のらせ、死に至る眠りに就いたのです。しかしこの楽園は、いまや、すべての情念に由来する衝動を振り払い、おん父である神さまへの従順のを付けた乙女を、しかもいきとし生けるものの生命の始めとなった乙女を[1]受けいれないでありましょうか。天は、喜びつつそのを開けないのでしょうか。とんでもありません! たしかにりであります! なるほどあのエバは、蛇の呼び掛けに耳を傾けて、敵のしに聞き従い、人をわすりの快楽から生じる衝動に感覚を魅了され、きと悲しみの判決をその身に受けました。そして産みの苦しみをなめ、アダムとともに死に定められ、黄泉のもっとも奥深い所にまることになりました。ところがこれに対して、あの本当に幸福きわまりないマリアさまは、神さまのみ言葉に身をかがめて聞き従い、(聖)霊の働き[2]に満たされました。そして、大天使を通しておん父のよしとする望み(のおん子)を[3]、快楽も知らず(男と)交わることもなしに、万物を満たす神のみ言葉のヒュポスタシスを宿しました[4]。そして、当然るべき産みの苦しみもなく、おん子をご出産なさったのです。そのうえマリアさまは、神さまとすっかり一致しておったのであります。であればどうして、そのようなマリアさまを、死が飲み込むでありましょうか[5]! どうして黄泉が受け入れるでありましょうか! 一体どうして腐敗が、この生命を宿したおん身体すでありましょうか! そもそもそのようなものは、神を宿したおん身体とおん魂とは別物であり、まったく無縁なものなのであります[6]



[1] th/j zwh/j panti. tw/| ge,nei kata,rxasan

[2] h` evne,rgeia tou/ Pneu,matoj

[3] th.n patrikh.n euvdoki,an evgkumonh,,sasa

[4] kai. h`donh/j pa,rex kai. sunafei,aj suneilhfui/a tou/ Qeou/ Lo,gou th.n pa,nta plhrou/san u`po,stasin

[5] pw/j katapi,h| o` qa,natoj*

[6] VAllo,tria tau/ta kai. pa,nth xe,na th/j qeofo,rou yuch/j kai. sw,matoj; 黄泉への転落が、死の腐敗の観念に結びつけられている(cf.Ps.16,8-11.Ac.2,24-27)。「飲み込む」(katapi,h|)は、聖パウロが『イザヤ書』(25,8)のギリシア語訳を引用しながら、死の最終的敗北に適用する言葉である(1 Co.15,54)。教皇大勅書『ムーニフィチェンティッシムス』(Munificentissimus)は、聖パウロのこのテキストを引用しながら、マリアが、その被昇天において、おん子キリストとともに勝ち取ったに違いない罪と死とに対する最終的な勝利を描写している。すなわち、「キリストのご復活が、この勝利の本質的な部分であり、最高の栄冠であったのと同じように、乙女マリアがその御事の一致のうちに成し遂げたこの戦いは、そのおん身体の栄えある被昇天によって完了されねばならなかった。使徒パウロの言葉によれば、死は、勝利に飲み込まれたのである」 (AAS,t.42,1950,p.768)。強勢のあるavllo,tria( pa,nth xe,naという言葉は、死と、乙女マリアの絶対的聖性および神との緊密な一致とが両立不可能であることを示している。