神の愛と受肉の賛美

 

この場所には、神の霊に鼓舞され神によって語られたかずかずのみ言葉[1]がありました。この場所には、神にふさわしい惜別の讃歌のようなものがありました。まさにこのことのために、無限極まりないしみを、偉大さを超える偉大さとを、無限の力を凌駕する力を、わたくしたちに対する神さまのすべての高みとすべての大きさを超えたやかさを、豊かな上にも豊かな把握されざるしさを、愛の底知れぬ深みを誉め歌わなければならなかったのであります[2]

一体どのようにして(神さまのみ言葉が)、おん父と()霊がよしとするままに、ご自身の偉大さを保ちつつ、高みへと引き上げる空しさへとへりくだられた[3]のでありましょうか。一体どのようにして、超実体的なおん方は、婦人の胎から超実体的な仕方で実体を受けたのでありましょうか[4]。一体どのようにして、神であるみ言葉は、同時に人間となり、しかもその両者でありながら同一であられたのでありましょうか[5]。一体どのようにして、神のみ言葉は、その神性の実体から抜け出ることなく、しかもわたくしたちと「同じように[6]」、肉と血を共有されたのでありましょうか[7]。一体どのようにして、すべてのものを満たされ、またありとあらゆるものをご自分の口のお言葉で支えられるおん方は[8]狭苦しい場所にお住まいになれたのでありましょうか。一体どのようにして、あの誉れ高き乙女の干し草のようにく物質的なおん身体は、神性の「焼き尽くす火[9]」を受けながら、混じり気のない黄金のように無傷であり続けたのでありましょうか。

神さまがお望みになったので、それらのことは起こったのです。なぜなら神さまがお望みになれば、すべてことが可能だからであります。神さまがお望みにならなければ、なにごとも不可能なのであります。

  まさにこのようなわけで、讃歌の競演が引き起こされました。しかしその競演は、各々の歌い手が他の者たちを凌駕するためのものではございません。そのような競演は、虚栄を求める心のなせる業であって、神さまに喜ばれるものとはほど遠いものでありましょう。そうではなく、熱意や力の続くかぎり、神さまを賛美し、神さまのおん母を誉めたたえるために、讃歌の競演がおこなわれたのであります。



[1] lo,goi qeo,pneustoi kai. qeo,fqegktoi

[2] `Umnh/sai ga.r evcrh/n kavpi. tou.tw| th.n u`pera,peiron avgaqo,that kai. to. u`perme,geqej me,geqoj kai. th.n avpeirodu,namon du,namin kai. th.n panto.j u[youj kai. mege,qouj evpe,keina pro.j h`ma/j auvtou/ metrio,thata( to.n u`pe,rplouton plou/ton th/j avkatalh,ptou crhsto,thtoj( th.n a;plhston th/j avga,phj a;busson; この一文は、受肉の動機をなす神の愛の無限性を指示している。この愛は、「慈しみ」(avgaqo,thj)、「優しさ」(crhsto,thj)、「穏やかさ」(metrio,thj)という語によって表されている。本文は、『知恵の書』(特に12,18-22)および、ナジアンゾスの聖グレゴリオス『神学教話』42、伝ディオニュシオス『神名論』3を思い起こさせる。また、ダマスコの聖ヨハネ『正統信仰論』4,13を参照せよ。

[3] pro.j th.n u`yopoio.n katabe,bhke ke,nwsin

[4] o[pwj o` u`perou,sioj evk gunaikei,aj nhdu,oj u`perousi,wj ouvsi,wtai

[5] o[pwj Qeo,j te evstin( kai. a;nqrwpoj ge,gone( kai. me,nei kata. tauvto.n u`pa,rcwn avmfo,tera

[6] He.2,14;『ヘブライ人への手紙』は、この箇所で、キリストとその兄弟たる人類との絶対的類似性を強調している。

[7] o[pwj ou;te th/j ouvsi,aj evkbe,bhke th/j qeo,thtoj( kai. <<paraplhsi,wj>> h`mi/n kekoinw,nhke sarko,j te kai. ai[matoj

[8] Cf.He.1,3.

[9] Dt.4,24; He.12,29; et cf. Is.33,14.