受肉の序曲

  しかしなんのために、乙女なるおん母は、不妊(の女)からお生まれになったのでありましょうか。それは、この日の下でただ一つ新しいもの[1]、驚くべき物事の頂点は、かずかずの驚嘆すべき出来事によってあらかじめ準備されていなければならなかったからであります。それはまた、かずかずのいっそう偉大な物事は、より劣ったものから少しずつ立ち昇らねばならなかったからであります。(しかし)わたくしとしては、これにはさらに他の、もっと高尚でもっと神的な理由があると思っております。すなわち、自然は恵みによって圧倒され、恐れおののいて立ち止まり、もはや敢えて先に進むことができなくなってしまった、ということであります。実際、乙女なる神のおん母は、アンナから生まれることになっておりましたから、自然は、敢えて恵みの子どもを先に宿そうとはいたしませんでした。むしろ自然は、実りのないままにとどまり、恵みが実を結ぶのを待望していたのであります。たしかに、「すべての造られたものに先立って生まれた方」、そのおん方のうちに「すべてのものが存立する[2]」長子を出産することになる(乙女が)生まれねばならなりませんでした。ああ、ヨアキムとアンナは、なんと幸せな夫婦でありましょう! 被造物のすべては、あなたがたに恩義を負っているのであります。あなたがた(お二人の)おかげで、被造物はあらゆるもののなかでもっとも卓越した供え物、つまり、ただひとり造り主にふさわしい尊いおん母を造り主にお捧げすることができたのであります。おお、この上もなく幸いなヨアキムの腰! なんの咎めだてもない種子がそこから出たのであります。ああ、賛美の誉れ高きアンナの母胎よ! 至聖なる胎児[3]はそのなかで、そしてそこから栄養の補給を少しずつ受け、発育し、成長し、そこから産み出されたのであります。おお、母胎よ! あなたはそのなかで、生命ある天を、もろもろの天のよりも広大な天をお宿しになったのであります。おお、生命をもたらす麦をうずたかく積み上げられた農園よ! キリストさまおんみずからこう宣言されております。「もしも麦の粒が地に落ちて死ななければ、それは粒のままである[4]」と。ああ、宇宙の養育者を養育する乙女を育て上げた乳房よ! ああ、驚きのなかの驚き! 逆説のなかの逆説! そうです、神さまの雅量に満ちた言いようのない受肉には、それらの驚きが先行しなければならなかったのであります。しかし、わたくしはどうやって話を先に進めればよいのでしょうか。思いは、我を離れ、恐怖と憧憬とがわたくしをばらばらに引き裂いてしまいました。胸は高鳴り、舌はぶるぶると震えてしまいました。もうこの喜悦には耐えられません! わたくしは、これらの驚異に圧倒され、この激情の虜になってしまいました。憧憬が勝ちを納め、恐怖は後ろへ引き下がりなさい! (そして)竪琴は楽を奏でて、「もろもろの天は喜び、地は喜び踊れ[5]」と歌いなさい!



[1] Cf.Qo.1,9.

[2] Col.15.17.

[3] bre,foj pana,gion

[4] Jn.12,24.

[5] Ps.96,11(LXX).