キリストの招き
ですから、さあ!みなさん! わたくしたちは神秘の山に登りましょう! そして物質や生活に関わる表象を乗り超えて、神的で捉え難き暗闇のなかに忍び入り、神的な光のなかに身を置いて、無限の能力を秘めるおん力を賛美することにいたしましょう[1]! では、どういうことでありましょう! 非質料的で、しかもすべてのものを超えたあの天を超える高みにおられ、また、おん父の懐におられるおん方は[2]、一体どのようにして、そこから乙女の母胎に下っていき、そのご胎に宿り、肉を受けたのでありましょうか。一体どのようにしてそのようなおん方は、自ら進んでかずかずの苦しみを通り抜け、死に向かって歩まれたのでしょうか。一体どのようにしてそのようなおん方は、地上にその誕生を持つおん身体を伴いつつ、(ご自分の)死によって不滅を獲得し、再びおん父のもとへと昇られたのでありましょうか。一体どのようにして、肉によるご自分のおん母を、ご自分の生みの親のもとに引き寄せたのでありましょうか。一体どのようにして、地上の天と呼ばれるおん母を、天上の地へと上げられたのでありましょうか[3]。
[1]
Deu/te
toi,nun( avnabw/men pro.j to. mustiko.n o;roj( kai. tw/n biwtikw/n kai.
u`likw/n evmfa,sewn gegono,tej u`ste,rteroi( kai. to.n gno,fon
u`peiselqo,ntej to.n qei/on kai. a;lhpton( evn fwti. tw/| qei,w| geno,menoi(
th.n avpeirodu,namon u`mnh,swmen du,namin)
[2]
o`
evk th/j u`perousi,ou perioph/j th/j avu<lou kai. pa,ntwn evpe,keina
[3]
本教話の根本的な意味がここに表明されている。モーセがシナイ山で神の密雲の中に入ったように(cf.Ex.24,9.18)、ダマスコの聖ヨハネは、地上への神の下降の神秘と人間の天への高挙の神秘との中に分け入ろうとする。マリアの被昇天は、この神秘を見事に要約している。天と地の比較が、本教話を貫く主題である。