謙虚にしてもっとも小さき修道司祭ダマスコのヨハネの第三教話

終生乙女なるマリアの栄えあるご就寝

 

緒言

 

なにかに恋いがれている者たちは、いつもその対象を自分の舌にせ、夜となく昼となく、それを心のなかにい浮かべるのが、世の常であります。ですから、いま、このわたくしが、わたくしの神のおん母のために、手向けのとして、これまでにお捧げした二つの讃歌に加えて、三度、讃歌をめたとしても、だれもわたくしをめないようにしてください。もちろん、わたくしは、かのじょに恵みをそうなどとしているのではございません。かえってわたくしは、わたくし自身のため、そして、おお!ここにお集まりの神的にして神聖なる皆さんのために、魂の益となり救いとなる食べ物を、この聖夜にふさわしく提供し、霊的な喜びをいたいのであります[1]。ご覧のとおり、わたくしたちの食べ物は、底を突いてしまいました。ですからわたくしは、ご馳走を急ごしらえいたしましょう。もちろんそれは、豪華なものではありませんし、(わたくしたちをここに)いてくださった神のおん母にふさわしいものでもありません。しかしそれでもそれは、必ずや空腹をらげてくれるでありましょう。もちろんかのじょは、わたくしたちからの賛辞を必要とするお方ではございません。むしろわたくしたちの方が、かのじょからの栄光を必要としているのであります[2]。なぜならすでに栄光を受けたものが、この上さらにどうして栄光を受けるでありましょうか。(光を放つ)光の源が、一体どうして光を受けるのでしょうか[3]。わたくしたちは、わたくしたちの行うことをとおして、まさにわたくしたち自身のために、栄光のを編み上げるのであります。「たしかにわたしは生きている。わたしに栄光を帰す者たちに、わたしは栄光を与える、と主は言われて[4]」いるのであります。

ぶどう酒は、本当に甘く、心地好い飲み物です。またパンは、栄養のある食べ物であります。前者のぶどう酒は、人間の心をばせ、後者のパンは、人間の心を強めます[5]。しかしわたくしの神のおん母[6]よりも甘美なものが、なにか他にあるでしょうか。かのじょは、わたくしの精神をにいたしました。かのじょは(わたくしの)舌を奪ってしまいました。わたくしは寝てもめても、かのじょのことをい浮かべます。み言葉のおん母は、み言葉の養い手なったのです! 産まずの子が、かずかずの不毛の魂を多産の魂にしたのであります! このようなおん母の神聖で神的なご転居を[7]、今日わたくしたちはお祝い申し上げているのであります!



[1] kai. pneumatikh.n qumhdi,an evmporeuo,menoj

[2] Cf.Rm.3,23:「人は皆罪を犯し、神の栄光を受けられなくなっています」。この神の栄光、この神との交わりは、マリアを通して人間にもたらされた。

[3] To. ga.r dedoxasme,non pw/j doxasqh,setai; h` phgh. tou/ fwto.j pw/j fwtisqh,setai;

[4] 2 S.2,30.

[5] Ps.104,15.

[6] h` mh,thr tou/ Qeou/ mou

[7] tau,thj th.n i`era,n te kai. qei,an meta,stasin