ヤコブの梯子

  今日、東のかたにが建設されました。キリストさまは、その扉をとおして「出入りされることになるのであります[1]」。そしてその扉は(いずれまた)、「閉ざされることになるでありましょう[2]」。「もろもろの羊の門」であるキリストさまは、その扉の内側におられます。「そのおん方のお名前は日の出[3]」。そしてわたくしたちは、そのおん方をとおして、光のなるおん父のみもとに近づくことができるようなったのです。今日、全宇宙的な歓喜を予告するそよ風が吹き抜けたのであります[4]。天は上方で喜ぶがよろしい。そして天下では、「地が喜び踊るがよろしい」。世界の海は、どよめきの声を上げるがよろしい[5]。なぜならこの海のなかで、真珠貝が生まれたからであります。そしてこの真珠貝は、天からの神性の稲妻によって胎内に子を宿し、この上もなく高価な真珠、すなわち、キリストさまをお生みになるのであります。やがてこの真珠貝から、「栄光の王[6]」が、肉の深紅の衣に包まれながら、「捕われびとたちのもとを」訪れて、「解放[7]」をお告げになるでありましょう。自然よ、喜び踊りなさい! 牝の子羊が生まれるのだから。やがてこの牝の子羊から、羊飼いが、子羊の衣を身に受けて、いにしえの死の衣を引き裂くのです。乙女たちよ、輪になって踊りなさい! イザヤがいったように、乙女がお生まれになたのです。かのじょは、「身ごもって、子を産むでしょう。その名はインマヌエル」、すなわち「神は、われらとともに[8]」と呼ばれるでありましょう。ネストリオス派の者たちよ、知るがよい。そして打ち負かされなさい! 神さまは、わたくしたちとともにおられるのだから。人間でもなく、代表者でもなく、主おん自らが訪れて、わたくしたちをお救いになるのですから[9]

「主の名によってきたる者に、祝福ありますように」。「主は神。そして主は、わたくしたちを照らされたのであります」。「わたくしたちは」神のおん母のために「祭りを催しましょう[10]」。アンナよ、喜んでください! 「子を産んだことのない産まず よ、歓声を上げて、声高に叫んでください! 産みの苦しみを味わったことのないご婦人よ[11]」。ヨアキムよ、喜んでください! 「(あなたの)娘さんから「ひとりのみどりごが、わたくしたちのために生まれたのです。ひとりの男の子がわたくしたちに与えられた」のです。「そのみ名は、偉大なるご計画のみ使い」、すなわち、全宇宙の救いの使者、力ある神[12]」と呼ばれるでありましょう。ネストリオスは恥を知りなさい! そして、口に手をあてなさい! この嬰児は、神なのです。どうしてその子を産んだ乙女が、神の母ではないのでしょう。「この聖なる乙女が神の母であると、告白しない者がもしもいるとすれば、その人は、神性から離れてしまっているのであります[13]」。(もちろん)わたくしがこのように申し上げましても、これは、わたくしの言葉ではございません。わたくしは、この最高の神学的遺産を、神の語りであるグレゴリオス神父さまから、受け取ったのであります。



[1] Ez.44,2.3.

[2] Ez.44,2.3.

[3] Za.6,12(LXX).

[4] これは、ビザンチン典礼の表現である。すなわち、ビザンチン典礼におけるご降誕日の聖務日課には、次のような表現がある。「今日は、宇宙の喜びの序章。今日、救いを告げるそよ風が吹き始めた」。

[5] Cf.Ps.96,11.

[6] Ps.24,7-10.

[7] Is.61,1;Lc.4,18.

[8] Is.7,14(LXX);Mt.1,23.

[9] Cf.Is.63,9.

[10] Ps.118,26.27.

[11] Is.54,1(LXX).

[12] Is.9,5(LXX).

[13] ナジアンゾスの聖グレゴリオス、第101書簡(PG 37)を参照せよ。ダマスコの聖ヨハネは、その三位一体論とみ言葉の受肉論とにおいて、グレゴリオスの影響を受けている。