脱出

 

  もろもろの山よ、かずかずの理性的本性よ! あなたがたは躍り上るがよろしい!  そして、霊的観想の頂に向かって身を伸ばしなさい[1]! なぜなら、この上もなく高貴な主の山が、お産まれになったからです。すべての丘とすべての山を超え超然とそびえる山、天使たちと人間たちのを超え超然とそびえ立つ主の山がお産まれになったのです。隅の頭石たるキリストさまは、この山から、(男の)手を借りずに身体的に切り出されることをよしとされたのです。ひとつのヒュポスタシス    遠く隔たったものを、すなわち、神性と人間性とを結び合わせ、また、天使たちと人間たちとを結び合わせ、諸国の民からきた人々と肉的なイスラエルとをひとつの霊的なイスラエルに結び合わせるひとつのヒュポスタシスが、その山から切り出されるのであります[2]。「神の山は、豊かな山、蜜る山、豊穣な山。神はそこに住まわれるのです」。神さまの恵みによっていまが盛りのケルビムとセラフィムの、「神の戦車は幾千万[3]」。(そして)この(神の)頂はシナイ山(の頂)よりも聖なのであります。煙も闇も、嵐も恐ろしい火も、その頂を覆いはしません。聖性極まりない(聖)霊の光り輝く照明がその頂を覆っているのです。あのとき神のみ言葉は、(聖)霊をいわば指のようにして、(二枚の)石の板に律法をお書きになりました。ところがいまや、み言葉おんみずからが、聖霊とマリアさまのおん血とによって肉になったのであります。そして、わたくしたちの本性のために、ご自分を、救いの効果的な薬としてお与えになられたのです。あのときはマナでした。そしていまや、マナと甘味[4]とをお与えになられたおん方(ご自身が)おられるのであります。



[1] Cf.Ps.114,4.ここでは、山が観想に結び付けられている。

[2] 1 Co.10,18; 山から切り出された石(Dn.2,34.45)と隅の頭石という二つの主題が、キリストによってもたらされた和解に関するパウロの遠大な視野(Ep.2,14-22)を導入している。

[3] Ps.68,17.18.詩編では、シオンの山が話題になっている。

[4] gluku,thatこの語の出典は、マナの下賜を祝う『知恵の書』(Sg.16,12)である。マナの下賜は、神のいつくしみの象徴となっている。