恵みの横溢

  ところで、相対立するものは、互いに他方の治療薬だといわれております。しかし相対立するものは、対立する他方のものから生じるのではございません。各々のものは、その本性となっているものを、それと相対立するかずかずのものから編み上げますが、しかし各々のものは、その本性の構成要素から[1]それを織り成すのでございます。たとえば罪は、その極端な邪悪さのゆえに、善をとおして、わたくしに死をもたらすものですが、それと同じようにもろもろの善の原因となっているものは、かずかずの相対立するものをとおして、自分の本性となっているものをわたくしたちのうちにもたらすのであります。たしかに、「罪のはびこるところ、そこに恵みが満ち溢れたのであります」。実際、もしもわたくしたちが神さまとの最初の交わりを保っていたとすれば、わたくしたちは、(これよりも)もっと偉大でもっと逆説に満ちた交わりに、ふさわしい者とはされなかったでありましょう。ところが実際には、わたくしたちは、(神さまから)頂いたものを守らずに、罪によって最初の交わりにふさわしくない者とされてしまったのであります。 そしてわたくしたちは、神さまの同情[2]によってあわれみを与えられ、もう一度受けいれられて、交わりを確かなものとされたのであります。実に、(わたくしたちを)改めて受けいれてくださったおん方は、この一致を確固として保つことがおできになるのです。

  実際、全地は、姦淫に姦淫を重ねてしまいました[3]。そして主の民は、「姦淫の霊」によって、その神なる主から迷い出してしまったのであります[4]。この主なる神は、「力強いおん手と高く掲げられたみ腕」によってかれらをご自分のものとし、かずかずの奇跡と不思議とによってかれらをファラオの「隷属の家から」導き出して[5]、紅海を渡らせ、「昼間は雲によって、夜は夜もすがら火の光によって[6]」手引きしたのでありました。 ところがかれらの心は、エジプトへとねじ曲がってしまったのです。主の民は「主の民ではなくなり[7]」、あわれみを受けた民はあわれみを受けなくなり、愛されていた民は愛されなくなったのであります。

  ですからこのようなわけで、乙女が、先祖伝来の姦淫の対抗者としてお産まれになり、神さまご自身のとなって、神さまのあわれみをご出産なるのであります[8]。そして以前には神さまの民でなかったものが神さまの民となり、あわれみを受けていなかった民があわれみを受け、愛されていなかった民が愛されるようになったのです。たしかに、この乙女から、神さまの愛するおん子、神さまの意にかなうおん子[9]がお産まれになるのであります。



[1] evk periousi,aj ou- pe,fuken

[2] sumpaqei,a

[3] Cf.Os.1.2.

[4] Os.4,12.

[5] Ex.13,14;Ps.136,12;cf.Dt.4,34.

[6] Ps.78,14.

[7] Os.2,13;Rm.9,25.

[8] ti,ktei tou/ Qeou/ to.n e;leon

[9] Mt.3,17;12,18.