教父学講義

草稿と資料

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誤記がたくさんありますので、ご注意ください。

朱門岩夫

最終更新日13/05/22


 

教会教父

 

 人々が教会の教父と呼び、その称号によってキリストにも等しい威厳を与えているそれらの謎の人物たちは誰なのだろうか。教父たちは、使徒たちに続いて八世紀まで教会を建設した世代に属している。彼らは、要理、典礼、解釈、神学などのあらゆる領域で先駆的な役割を果した。彼らは紛れもなく、信仰における私たちの父であり、霊の生命に結ばれた私たちの兄弟である

 それらの教会の開拓者たちは、教父という名を持っている。なぜだろうか。イエズスがご自分のおん父を親しく呼んだあのアッバという言葉は、二世紀以来、教父たちの共同体によって彼らがどのような点でおん父に近いかを示すために使われてきたのである。勿論、彼らは、彼らの共同体の所在地名を冠した名前で呼ばれもする:リヨンのエイレナイオス、カエサリアのバシレイオス・・・。「教父」という称号を最初に受けた人たちは、ローマのエレウテロス、スミュルナのポリュカルポス、カルタゴのキュプリアヌスである。それらの三者は皆、司教であり、殉教者であった。そのことから、教会の教父は皆、司教であり殉教者であったと結論することはできない。彼らの大多数は司教であったが、彼らは、その生活の質と取り組みの質によって誰よりも際立っていた。

 実際、教父たちは、福音によって捉えられ、福音を自分たちの全生涯を通じてみ言葉を生きた人たちだった。ある教父たちは、アンティオキアのイグナシオスのように、自分たちの共同体の奉仕に全面的に献身した司牧者であった。またある教父たちは、オリゲネスのように、聖書の深みを同時代の人々に理解させることに専念した。またある教父たちは、まさにクリュソストモス、すなわち「黄金の口」と呼ばれるヨハネのように、みずからの説教によって同時代の人たちに呼び掛けた。

 

勇気と対話の人

 ギリシア・ローマ世界の後継者であり、生まれたばかりのキリスト教の真の弁護者であった教父たちは、自分たちの能力を信仰の奉仕のために費やした。テルトゥリアヌスは、法律家であった。彼は、キリスト教用語を定め、秘跡、洗礼、三位一体などの言葉を導入した。ミラノのアンブロシウスは、行政官であった。彼は、ミラノの教会の典礼を整備し、貧しい人たちのために尽くした。教父たちの大多数は、ギリシア・ローマ文化と対話し、時に危険な目にも遭った。殉教に加えて、彼らはしばしば、同時代の知的エリートから嘲りや嘲笑を受けた。彼らには、勇気と大胆さ、そして忍耐が必要であった。その対話は、今日の私たちが世間の人々と行なう対話と似ていなくもない。たしかに私たちの状況は、彼らの時代に比べて快適である。しかし、今日の状況とても、彼らの時代と同じ性質を要求しているのではないだらうか。もちろん私たちは、キリスト教に市民権が与えられるべきだと主張する必要はない。しかし私たちは、世俗化された社会の中でキリスト者としての独自性を明らかにし、キリスト教が単に文化の問題ではなく、人生の真の道であることを示さなければならないのである。教父たちは、徹頭徹尾、熱烈な丈夫であり、思想の闘志であった。四世紀のカエサリアのバシレイオスは、その典型的な例である。倦むことを知らぬ司牧者として、彼は、貧しい人のためにバシレイアドスという町を建設した。彼は、当時問題となっていた聖霊の神性を擁護することによって神学の発展に貢献した。カッパドキアの教会が困難に陥ったとき、彼は自分の兄弟や友人を周辺の町の司教に任命し、教会の影響力を確かなものにした。

 こうして彼らは、教会の柱となった。彼らは、今日の私たちが知っている教会の諸機構を整えた。彼らは、聖書の正典、すなわち啓示されたものとして認められる諸書の全体を定める基準を設定するのに貢献し、典礼を組織した。またその教義的な努力によって、教会の組織を固めた。

 彼らは本当に、霊の生命に結ばれた私たちの兄弟であり、教会の春を生きた先駆者であった。彼らは、カリスマ的な役割を果した。なぜなら彼らがキリスト教文明の創設者となったのは、聖霊のおかげだからである。福音と使徒たちが指針を与え、教父たちがそれを精密にし、一貫した思惟の形にまとめ上げた。

 

アウグスティヌス

 教会教父の典型的な肖像画を描くために、私たちは、キリスト教で最も偉大な人物の一人となったアウグスティヌスを例に挙げよう。彼は、354年、北アフリカのヌミディアの小都市タガステに中産地主の長男として生まれた。父のパトリキウスは死ぬ少し前にカトリックに改宗し、母モニカは熱心なカトリック信者であった。父の死後、素封家ロマニアヌスの援助を得てカルタゴに遊学した。彼は、文学者としての輝かしい経歴を約束されていた。しかし、今は失われて現存しないキケロの著作『ホルテンシウス』が彼に別の道を示した。それは智恵の道である。アウグスティヌスは、その『告白』の中で、知性と意志と心でもってキリストを認め、ミラノ近郊のカシキアクムにある庭園での最終的な回心に至る十四年間の魂の遍歴を記している。彼は、387年の復活祭の夜、ミラノでアンブロシウスの手から洗礼を受けた。その後、彼は、修辞学教師を辞めて故郷に帰り、友人たちと共に隠遁し、それらの友人たちと、勉学と祈りに専念する「神のしもべ」の共同体を組織した。しかし彼は、息子アデオダトゥスがなくなった翌年の391年、礼拝の最中、群集に取り囲まれ、彼の意思に反して司祭に指名された。その後しばらくして、396年、彼は司教ヴァレリウスの後任となった。そして彼は、「あなた方のために私は司教であり、あなた方と共に私はキリスト者である」(説教340)というよく知られた格率に従って司牧と奉仕、裁定、説教に専念した。そのような司牧活動のただ中で、彼は、著作を書き、聖書を注解し、当時の異端に応え、三位一体について思索した。論考を作成するために、アウグスティヌスは、学者たちの集う高間に身を引くことなく、自分の友人たちと話し合い、自分に残されたわずかな時間を著作に充てた。一度自分の大著が出来上がると、彼はその要約を自分の教区のキリスト者たちに提示し、唯一の啓示はすべての人に向けられていることを地で示した。アウグスティヌスは、ヒッポがヴァンダル族に攻囲されている最中に死んだ。彼の生涯は、苦しみを内に孕んだ激動の生涯であり、思索と行動の人、司牧者であり神秘家であった。アウグスティヌスは、その著作と生活によって、信仰における私たちの父である。彼は、その体験によって、霊の生命に結ばれた私たちの兄弟である。それゆえアウグスティヌスは、本当に教会の教父である。

 

ローマ帝国のただ中で

 ローマ帝国の小さな東方の属州に生まれた福音は、地中海沿岸全体に少しずつ広がっていった。既に設立されていた共同体から派遣されたキリスト者の指導の下に、共同体があちらこちらに設立された。それらの地域教会のただ中で、信仰と愛、指導力、知力、活力において群を抜いた人たちが現れた。彼らが教父である。彼らの生きた世界は、私たちの世界とかなり隔たっている。しかし、彼らの世界と私たちの世界は、そのように異なっていても、多数の宗教的諸伝統に満ちた世界における少数派という点で一致している。

 ローマ世界は、二世紀以来、激しい宗教問題に苛まれていた。都市の古代祭儀は、人々の宗教的渇望をもはや満足させることができなくなり、人望を失っていた。これに対して、陸上交通、航海、商業の発達、ローマ帝国の東方への拡大は、救いと加入儀礼、彼岸の希望を提供する東方の諸祭儀の拡散をもたらした。

 生まれたばかりのキリスト教は、当時、それらの東方宗教の一つとして現れた。その新しい宗教の信奉者は、数が少なかった。新しい共同体は、信仰の内容をよりよく伝える使命を帯びた使者や書簡を通して、互いに連絡を取り合い、教化し合う必要があった。

 一見すると、キリスト教は、当時のローマ帝国の宗教的景観に難なく溶け込むことができるように見えた。しかしキリスト教は、多神教を排除する徹底的な唯一神論を提示していた。更にキリスト者たちは、皇帝崇拝を拒否していた。したがってキリスト者たちは、高位の権力者たちの目には危険人物のように写った。時と場所に応じて、キリスト者たちは嫌がらせを受け、大迫害や局部的な迫害の犠牲に倒れた。宗教的平和と激しい迫害が交互に押し寄せた。しかし、三世紀の後半になると、全般的な宗教的寛容が確かに現れた。

 

決定的な転機

 様々の迫害の嵐――その中で大きなものは、ディオクレティアヌス帝の迫害で、それは303年から311年まで続いた――の後、大きな変化があった。ガレリウス帝は、キリスト教寛容令を発布し、キリスト教を最初の公認宗教とした。

 312年のコンスタンチヌス帝に起こった出来事が、キリスト教に決定的な転機をもたらした。マクセンチウスに対する勝利を神の賜物として受け取ったコンスタンチヌスは、その勝利に深く心を揺さ振られ、313年に採択したミラノ勅令でキリスト者に信教の自由を与えた。しかし、彼はそれだけに留まらなかった。彼は、貨幣にキリスト教のシンボルを刻ませ、その旗には、キリストの最初の文字であるXとRを描かせた。当然、キリスト者は、コンスタンチヌス帝の恩恵に浴することになった。また彼は、自分が帝国の東部の皇帝になったとき、ローマ帝国の首都をコンスタンチノープルに移すことに決め、以後コンスタンチノープルは、キリスト教の紛れもない首都になった。321年には、日曜日を祭日と決め、奴隷を解放する勅令を発し、更には、司教たちの求めに応じて教会生活に介入し、公会議を召集したのである。司教を始めとする聖職者たちの増大する権威をより確かなものとするために、彼は数々の壮大な教会堂(バシリカ)を建設させた。それらの建造物は、本来、市民集会や商取引、裁判などとして使われたものである(バシリカは、国王を意味するギリシア語のバシレウスに由来している)。コンスタンチヌス帝のもとで建設されたそれらの教会堂は、帝立集会所と言ってよく、およそ4000名まで収容できた。たとえば、ローマのラテラノ丘にある聖ペトロ聖ヨハネ教会堂、エルサレムの聖墳墓教会がそうである。そしてそれらの教会堂は、司教館、集会場などの他のキリスト教建築物群に少しずつ取り囲まれていった。

 コンスタンチヌス帝の息子たち、すなわち西方のコンスタンス(340-350)と東方のコンスタンチウス二世(337-361)は、キリスト教に好意的な政策を継続した。迫害は、もはや問題にならなかった。キリスト者は、いわば都市の精鋭部隊となり、改宗者は増大した。カエサリアのバシレイオスやニュッサのグレゴリオスの一団のように、迫害の数々に苦しめられた人々は、以後、平和の内に生活し、教会の奉仕のために働くことができた。

 

福音宣教

 最初の数世紀間、福音宣教は、キリストの受難の追体験を受け入れるまでに生命を捧げる殉教者たちの証によってしばしば行われた。ユスティヌスやテルトゥリアヌスのような人々にとっては、福音の告知は個人的な回心の源でもあった。313年以降、信仰の覚醒は、福音宣教者の後を引き継ぐ集団の中で行われ始めた。しかし、アントニオスやアウグスティヌスの場合のように、個人的な呼びかけから回心が行なわれる場合もあった。

 最初の数世代の間は、福音の伝達は口頭で行なわれた。使徒たちの伝統に結びつかない幾つかの文書は、外典、すなわち「隠された文書」と見なされた。多くの文書が、部分的な形で流通した。教父たちの著作にも、聖書からの引用に様々の異文が見出された。時に教父たちは、聖書を七十人訳と言われるギリシア語訳で引用し、他の場合には、古ラテン語の諸訳から引用した。それらの古ラテン語諸訳は、各共同体でまちまちに翻訳されたもので、多種多様である。それらのラテン語訳の統一を目指したブルガタ訳に基づく教父たちはかなり稀であった。ヒエロニュムスによって始められ、ルフィヌスによって完成されたブルガタ訳は、五世紀になって初めて広まった。

 

異端との戦い

 教父たちがどのような点で教会の建設者であったかを思い描くことは、時に難しい。彼らは、ほとんどすべてを建設しなければならなかった。霊の息吹に導かれながら、教父たちは、議論し、決定し、識別し、選り分け、抑制し、排除した。彼らが引き継いだ新約聖書は、当初は、断片的な報告の寄せ集めに過ぎなかった。様々な文書が流布し、それぞれがその真性さを要求した。どのような信頼をそれらに与えたらよいだろうか。またどのような基準によって。その上、キリストの本性について、ユダヤ教の文書の位置づけ、キリスト者の定義、共同体の組織について様々な意見がぶつかり合った。どような見解を採るべきか。教父たちの最初の課題の一つは、聖書の選択基準を確立し、統一的な見解を定めることにであった。こうして伝統の観念が生まれた。したがって伝統に基づかない主張は、異端になった。実際、異端は、伝統からの逸脱を前提にしている。異端者たちは受け取ったものを伝承する代わりに、みずからを伝統から外れた新説の唱導者とした。

 しばしば異端者たちは、司祭ないしは司教の指導の下に教会の内部で勢力を得ようと画策した。一度教会内部で権威を獲得すれば、異端は容易にその聴衆を獲得するのである。アリウスは、そのようにすることによって、自分の同郷人たちにその名をすばやくとどろかせ、また、ゲルマン人たちに布教した司教を通してゲルマン人たちの間にも自説を流布することができた。帝国は、時に、教義的な理由によるよりも、政治的な理由で異端者たちを歓迎した。こうして四世紀の皇帝の幾人かがアリウス主義を自分たちの宗教として採用した。教父たちが教義の純正さを維持するために支払った勇気と責任がいかばかりのものであったかは、察して余りあるだろう。

 しかし異端は、キリスト教の使信の内容における逸脱からも生じる。その理由は様々である。時として異端者は、神話伝説とキリスト教とを淆交した。そのようにしてキリスト教的グノーシスの潮流は、善と悪の諸力に二分された世界を自分たちの世界観に取り入れたのである。またある場合には、彼らは、旧約聖書に描かれた神観を斥けた。マルキオンの場合がそうである。彼は、二世紀に自分の教会さえ建てた。

 異端は、共同体の一致を損ねた。異端は、理論的と実践的との二重の問題を引き起こした。理論的な問題とは、新約聖書の司牧書簡に見られる「偽教師」の問題であり、実践的な問題とは、共同体の一致を損ねる問題である。たとえば、アンティオキアのイグナチオスは、『エフェソの信徒たちへの手紙』(6,2)と『トラレスの信徒たちへの手紙』(6,1)の中で異端者たちを告発している。

 異端概念の真の発案者は、ユスティノスである。彼は異端を排除に値するものとして定義している。異端の糾弾は、「異端者」からキリスト者の身分を剥奪することであった。異端者は、共同体によって再教育され、更には、キュプリアヌスが執拗に勧めたように再洗礼を施されねばならなかった。異端の概念が二世紀に現れたのは偶然ではない。当時、教会の諸機構が固められ、正統の概念が前面に出てきたからである。一世紀後に、テルトゥリアヌスは、その論考『対異端規定』の中で、どのようにして人が異端になるかを示している。四世紀に、異端目録が現れた。エピファニオスの『パナリオン』(薬箱)、アウグスティヌスの『異端論』…。正統性が異端を背景にして徐々に形を現わし、教会の先駆者たちはますますはっきりとその姿を現わすようになった。

 しかし、ジャン・ダニエルが述べたように、異端は、キリスト教にとってしばしば教義的発展の一因であった。異端は、神学の形成に一役買っていたのである。たしかに福音を読んでみると、キリストが神の子であることは疑いのないことであった。しかし、キリストを人間に引き下げたアリウスに対抗して、キリストの神性、およびキリストとおん父との同等性についての省察が深まった。聖霊の神性の主張についても同様である。様々の異端への対応を通して、教父たちは教義の領域における開拓者として姿を現わし、生きた伝統を結び合わせるひと節となっていった。

 

 

教会の建設者

 

 キリストをさげすむ世の中でキリスト者としてどのように生きるか。教父たちは、心のすべてをあげて、全力でその問題に答えた。彼らは、自分たちの共同体をまとめ、不当に告発されている兄弟たちを弁護し、兄弟愛に生きた。彼らの多くが殉教した。彼らは生命を賭けて、キリストが誰であるかを明らかにしようとした。彼らはまさにキリストの教会の建設者である

 教父たちはその活動時期に応じて様々な特徴を与えられている。西暦150年頃までの教父は、使徒たちに最も近かったので使徒教父と呼ばれている。二世紀の中頃に護教家と呼ばれる教父たちが現れ、彼らは帝国内でのキリスト者の立場を弁護した。次いで三世紀に入ると、キリストの定義に貢献する輝かしい人たちが現れた。彼らは、時に殉教しつつ、ギリシア文化と対話し、ユダヤ教の聖典を研究し、異端と戦い、言葉遣いを明確にした。ここには、若い教会の生気ある息遣いが感じられる。

 

使徒の弟子たち、使徒教父

 十七世紀以来、「使徒教父」と呼ばれている教父たちは、全教会にとって貴重な人たちである。彼らは、新約聖書を作成した人たち、すなわち使徒たちに最も近い。彼らは、直接的にではないとしても、少なくとも霊において使徒の弟子であった。

 たとえば小アジアのスミュルナの初代司教であったポリュカルポスは、使徒ヨハネの友人であった。そして将来のリヨンの司教であるエイレナイオスを教育したのがポリュカルポスである。したがってエイレナイオスと使徒ヨハネとの間には特別な絆が存在する。

 使徒教父に数えられる人たちは、ローマのクレメンス、アンティオキアのイグナチオス、スミュルナのポリュカルポス、ヘルマス、ヒエラポリスのパピアス、『ディオグネトスとの対話』および『バルナバの手紙』の著者である。彼らは、使徒たちの精神において、著作を著わし、教会の構造に形を与えた。彼らは、使徒たちの時代と教会の時代を結ぶ要であり、いわば教会の春を生きていた。

 

一致の神秘家アンティオキアのイグナチオス

 エルサレムに次いで二番目に古いキリスト教共同体の責任者であったアンティオキアの司教イグナチオスが、二世紀の中心的な人物である。自分の共同体のいわば父として、司教イグナチオスは、その責任感を深め、みずからの考えを彼の知り得た諸共同体に伝えた。彼は、共同体における司教の現存と感謝の祭儀におけるキリストの現存との間に明瞭な絆を見出し、殉教を信仰の学校、真正さの手付けとして信者に提示した。

 使徒パウロと同じように、彼は、ローマへの殉教の旅路を歩んでいたときに自分を歓迎してくれた共同体や訪れようと願っていた共同体に手紙を書いた。177〜180年の作と推計される書簡の中で、彼は、信仰の証人として語り、共同体の福音的性格を維持しようと努めている。彼の考えを一口で言えば、彼は一致の神秘家であったと言うことができよう。実際、彼は、神とキリストの一致、キリスト者とキリストの一致、殉教の封印を押されたキリスト者相互の一致を主張したからである。彼は、感謝の祭儀を一致の秘蹟、司教を、共同体の内部で一致の実現を図る人として提示した。彼の提案する三連語、すなわち司教、感謝の祭儀、殉教という三つの言葉は、初代キリスト教共同体の生活の核心に私たちを触れさせている。

 

機構の整備

 最初の二世紀間のキリスト教共同体が強化されることを求め、また実際に殉教者たちの生き生きとした証によってそうなったとすれば、以後の共同体は、組織されること、すなわちその存続を可能にする機構を求めたと言える。

 そのことにいち早く気づいたのは、いわゆる『ディダケー』(異邦人キリスト者に向けた主の教え)、すなわち『十二使徒の教訓』を編纂した西シリアの人たちであった。彼らは、一世紀の半ばに初めて、「教会の法規」を定めた。彼らの目的は、倫理的な掟と裁判規定を提示し、共同体を組織化し、典礼法規を定めることであった。その目的で彼らは、そのような要理と典礼に関する便覧を作成したのである。その便覧は、生命の道と死の道のいずれかの選択を進める勧告から始まり、洗礼、感謝の祭儀、主の祈りについての求道者教育の指針を示している。最後にそれは、規律の遵守、愛徳の奨励、社会活動、終末への備えで終わっている。

 それを補うような形で、使徒ペトロの第三代後継者であるローマのクレメンスは、96年にその最初の書簡『コリントの人たちへの手紙』の中で、「教会の裁治権の宣言」を行っている。50年前に使徒パウロが団結を促したコリントの共同体は、青年たちによる司祭団の罷免の結果、再び分裂していた。クレメンスはそれに介入したのである。彼はその時、使徒伝来の聖伝の概念を定義し、統治権は、使徒たちと彼らの後継者に由来すると述べた。そして彼は、騒動を起こした人たちに悔い改めと回心を求めた。ここに初めて、聖職者と一般信徒との区別が明瞭になされ、それぞれの活動分野が定められた。

 三世紀になるとローマのヒッポリュトスは、司教祝聖および一般信徒のための法規、そして宗教的実践に関して補足的な指示を与えた。

 ところが四世紀になると、それまでの司牧者たちが共同体の組織、戒律、祭儀、要理に関して提起したすべての問題に、『使徒憲章』が答えた。その憲章は、三つの文書、すなわち『ディダスカリア』、『ディダケー』、『使徒伝承』からの編纂物であった。結局、教会の組織が、司教、司祭、助祭の三階級からなる教会位階制を取るには、およそ二世紀を要したわけである。その時以来、教会ははっきりした構造を取るようになった。

 しかしながら、ステファノの殉教以来、四世紀はじめのディオクレティアヌス帝による迫害の嵐が収まるまで、キリスト者は不安定な状況下に置かれていた。ギリシア教父やラテン教父の如何を問わず、アテナゴラス、アンティオキアのテオフィロス、タティアノス、ユスティノス、テルトゥリアヌス、ラクタンチウスなどの護教教父たちは、ローマ帝国内での市民権を彼らのために確保し、皇帝たちを説得するために、その努力を惜しまなかった。

 

護教家の模範ユスティノス

 護教家たちは、キリスト者が帝国内で完全な権利を持った市民であることを認めさせようとした。彼らの中で、哲学的な素養を持ったユスティノスが際立っている。彼は二種類の護教書を書いている。一つは、皇帝と異教徒たちに宛てた第一護教書、もう一つはトゥリフォンとの対話にあるユダヤ人に宛てた第二護教書である。

 148年にアントニヌス帝に宛てて書かれた護教書で、ユスティノスは、キリスト者に加えられた不当な非難を告発している。そして彼は、キリスト教信仰を説明し、キリスト者が納税を怠らない忠実な市民であることを証明している。最後に彼は、アントニヌスの責任感に直接訴え、その父ハドリアヌスがしたのと同じようにキリスト者に市民権を与え、永遠の生命のために回心するように勧めている。

 次いで、161年に元老院に宛てて書かれた護教書では、ユスティノスは、キリスト者が非合法に処刑されることに抗議している。キリスト者は、犯罪の責めにも、人食の責めにも、自殺の責めにも値しないと。

 ユダヤ人に宛てられた護教書である『トゥリフォンとの対話』では、ユスティノスは、かなり穏やかな語調を取っている。彼は、キリスト教の信心を正当化し、キリスト教神学と人間学の概要を描き出し、創造と自由と救いの現実を浮き彫りにしている。ユスティノスは、偶像に犠牲を捧げることを拒絶して、首を切り落とされた。

 

殉教に到るまで

 リヨンにおける大迫害を含めて、ネロやハドリアヌス、セプティミウス・セヴェルス、デキウス、ディオクレティアヌス、ガレリウスによる様々な迫害の中でキリスト者が受けた殉教を通して、殉教神学が生まれた。もちろんキリスト者たちは、殉教をみずから積極的に求めていたわけではない。しかし彼らは、殉教を避けることなく従容と受け入れることによって、自分たちの信仰と復活への希望を証した。 

 殉教によってキリスト者たちは、キリストに一致し、キリストのご受難を追体験し、キリストの復活に与る。アンティオキアのイグナチオスは、その書簡の中でそのことを既に際立たせていた。同じことは、テルトゥリアヌスの『殉教論』、オリゲネスの『殉教への勧め』、キュプリアヌスの『フォルトゥナに宛てた著作』についても言える。『リヨン殉教禄』(1,41)の伝えるところによると、177年に行われたリヨンにおける大迫害では、殉教者の中でも有名であったブランディナが生き生きとした証を行っている。「戦いのただ中で、その兄弟たちは、姉妹ブランディナの中に、キリストが十字架に付けられているのを肉眼で見たと信じている。キリストは、ご自分の栄光のために苦しみを受けるすべての人を、生ける神との永遠の交わりの内に生きるよう招いておられた」。

 たしかにそこには、聖人伝に特有の誇張がある。しかし、それらの物語は、試練の数々を思い起こさせることによって共同体を勇気づけ、キリストの証の真実さを身に染みて感じさせたのである。そのことは、ポリュカルポスの殉教の物語からも明瞭に見ることができる。その物語は、最古のものであると共に、ポリュカルポスの殉教に最も近い。ポリュカルポスの殉教は、156年2月22日に行われ、キリストのご殉難の光のもとに読み直されている。信仰を否定するように促す属州長官とわめきたてる群集とを前にして、ポリュカルポスは、その冷静さと心の高潔さで際立っていた。猛獣に渡される代わりに、火炙りの刑に処せられたポリュカルポスは、「かまどの中のパンのように」表わされている。その喩は今日ではかなり乱暴なように見えるが、当時の状況に合わせて理解されねばならない。それは、感謝の祭儀におけるパンを指している。

 

人間のための弁論家エイレナイオス

 三世紀も終わりにさしかかると、、本当の意味でのキリスト教神学、すなわち神についての明確で一貫した議論が生まれた。それらの最初の神学者たちの内で、エイレナイオスは特権的な位置を占めている。彼は、『異端反駁』と題される有名な作品の著者であり、177年以後リヨンの司教となった。彼は、ガリアにキリスト教を広めるのに大いに貢献した。エイレナイオスは、小アジアの生まれで、ポティノスの後を継いでリヨンの第二代司教になった。彼は、自分の共同体を活気づけ、そのまとまりをグノーシス主義の脅威から護った。グノーシス主義者たちは、認識による救いを賛美し、人間の本性を見限る二元論的な主張を擁護していた。そのことは、エイレナイオスに、真の意味でのキリスト論を最初に展開するきっかけを与えた。エイレナイオスは、キリストの受肉を黙想しながら人間の本性の価値を高めた。彼は、希望の使信を告げ知らせ、人間が神の似姿にかたどられていることを思い起こさせた。「神の栄光は、生きている人間である。人間の生命、それが神のご意志である」(異端反駁IV,20,7)。進歩の概念はまだ問題になっていなかったが、エイレナイオスは、その観念に基づいて、人間の自由に中心的な位置を与えた。また彼は、創造、受肉、人間の神化についての神学を最初に展開した教父たちの一人である。エイレナイオスによると、キリストは、受肉することによって、神を人間の中に住まわせ、人間を神の内に住まわせる。更にエイレナイオスは、三位一体の問題にも着手し、おん子と聖霊はおん父の両のみ手であるという有名な喩を残している。

 

最初の思弁

 同じ頃、東方では大きな神学的取り組みがなされていた。アレクサンドリアの町は、もっとも熱した溶鉱炉の一つだった。もともとストア派の哲学者であったパンタイノスが、キリスト教に回心し、要理学校を建てた。彼は、自分の弟子であり後継者であったアレクサンドリアのクレメンスに大きな影響を与えた。クレメンスは、神の神秘を解明しようとする思弁神学の創設者と目されている。クレメンスは、ギリシア人にとって宇宙を説明する原理であるロゴスを取り上げ、そこにキリストの姿を見た。『勧告』の中でクレメンスは、創造主、救い主としてのロゴスの役割を強調し、受洗者に教師としてのキリストを提示した。『雑録』には、ロゴスに魂を守られつつ対面見神へと到る諸段階が述べられている。クレメンスは、ギリシア哲学の諸概念を摂取し同化することによって、ヨハネ福音に述べられたロゴスであるキリストを前面に出すのに多大の努力をした。

 

オリゲネス

 オリゲネスは、185年、アレクサンドリアに生まれた。彼は、その体系的著作である『諸原理について』、およびギリシア文化とキリスト教の関係を明瞭にした『ケルソスへの反論』によって体系的神学者と見なされている。しかし彼は、何よりも聖書の精通者である。そのことに関しては、聖書を飲み込んだ預言者エゼキエルの姿が思い起こされる。オリゲネスの父レオニダスは、幼年時代から彼に聖書を読み聞かせた。次いでオリゲネスは、ユダヤ教のラビたちのもとで旧約聖書を学んだ。彼の作品は、まるで膨大な聖書注解書である。彼は聖書の注解に専念し、解釈学を基礎づけ、聖書には文字通りの意味の他に、霊的な意味があると主張した。彼が教話とアレクサンドリアの要理学校で行ったことは、その聖書の知識の分かち合いである。しかし、オリゲネスはそれに留まらず、聖書に基づきながら神学のすべての領域に手を着けた。彼は、解釈学、秘蹟神学の先駆者であり、その『雅歌注解』によって神秘神学の創設者でもある。彼の著作は膨大で、その一部は失われてしまったが、それらの著作には、行き過ぎたところがないでもなかった。しかし彼の著作は、後の著作家たちに甚大な影響を与えた。オリゲネスは、202年の父の殉教から大きな影響を受けたが、みずからもデキウス帝の迫害を受け、ほどなくして251年に死んだ。彼の活躍は、二世紀と三世紀のアレクサンドリアのキリスト教の栄華を物語っている。

 

アフリカ教会の繁栄

 同じ頃、別の町でもキリスト教が栄えた。それはローマではなく、ローマと同じラテン語圏のカルタゴである。カルタゴは、テルトゥリアヌスとキュプリアヌスによって司牧の上でも知性の上でも大躍進を遂げた。

 テルトゥリアヌスの作品は、その広さの点でオリゲネスの作品に比肩する。彼は、およそ31の作品を残し、それらは護教、神学、倫理に分類される。しかし、テルトゥリアヌスは、その法律的教養のおかげで神学用語の確立に大きな貢献をした。たとえば、三位一体という言葉を父と子と聖霊に適応し、それを「唯一の実体と三つのペルソナ」と定義したのは、彼である。もちろん彼は、その言葉の意味を発展させたわけではない。その問題についての首尾一貫した反省がなされるには、中世を待たねばならなかった。エイレナイオス以後の人として、そしてアタナシオスとバシレイオス以前の人として、彼は、『プラクセアス駁論』という著作によって三位一体神学の創設者の一人に数えられる。彼はその著作の中で、三位一体における三つの位格の関係を明確にし、それを太陽と光源の関係になぞらえていた。

 エイレナイオスと同様に、しかし異なったやり方で、テルトゥリアヌスは、グノーシス主義に反対し、信仰規則を発展させ、人間における魂と身体の結び付きを強調している。倫理の分野では、彼の厳格さと熱狂が彼の心に非妥協性を植え付け、彼を少しずつモンタニスムに近づけていった。その異端は、世の終わりが急迫していることを強調し、禁欲生活を力説した。テルトゥリアヌスは、こうした逸脱にもかかわらず、用語上の貢献のゆえに、西方に大きな影響を与えた。

 キュプリアヌスは、テルトゥリアヌスと同様の回心者であるが、彼ほど過激ではなかった。彼は248年、司祭に叙階され、翌年、司教に選ばれた。彼は、寡作であったが、迫害の時代に大きな司牧的役割を果たした。彼は、アンティオキアのイグナチオスと共に古代キリスト教における偉大な司教に数えられる。彼は教会の一致の実現を図り、迫害のときに自分たちの信仰を否認した転落者たちに、教会に戻るに先だって悔い改めと回心をするように求めた。彼自身、258年9月14日、首をはねられて死んだ。彼は、追放中の書簡の中で、司教の召命を万人への愛と定めている。

 テルトゥリアヌスおよびキュプリアヌスと共に、北アフリカの教会は、重要な時期を迎えた。そしておよそ一世紀ばかり後に、そこにはアウグスティヌスが現れ、北アフリカの教会は栄華の絶頂に達した。

 

 

キリスト教世界の開拓者たち

 

 313年以来、教父たちの思索と行動は、新しい方向に向かった。四世紀は、前例のない神学的開花によって特徴づけられる。それは神学の黄金時代である。教会と皇帝が対話を始めると共に、福音のラディカリズムが生まれ、キリスト者は彼岸へとその眼差しを向けた。隠遁生活と共同生活のいずれかの形態を取って、修道生活が広がり、ここに初めて偉大な修道規則が生み出された。

 教会の平和は、必ずしも教会内の平和を意味しなかった。アリウス派の異端は、一世紀近くも猛威をふるった。アリウス派は、496年にクローヴィスが受洗するまでガリアにはびこり、更にそれ以後でも、西ゴート族の支配するスペインにはびこっていた。その異端は、アレクサンドリアの司祭の名を戴いている。アリウスは、キリストが神ではなく、おん父と同じ本性を持たないと主張していた。325年に開催されたニカイア公会議は、彼を断罪した。しかし、それにもかかわらず、アリウス派の人たちは、皇帝たちを味方につけ、自分たちを指示する司教たちを指名してもらうように画策した。

 

ニカイア公会議の擁護者アタナシオス

 アリウス主義者たちは、アタナシオスの内に非常に頑強な反対者を見出した。若くして助祭に任ぜられたアタナシオスは、ニカイア公会議のおりに、自分の仕える司教の秘書として活躍した。彼は、アレクサンドリアの総大司教になると、その全生涯にわたって、ニカイア公会議の信仰を弁護することに努め、時には皇帝とも衝突した。そのため彼は、トゥレヴェ、ローマ、エジプトの砂漠へと五回も追放の憂き目に遭った。しかし彼は、その追放の時にあっても、自分に託された共同体と連絡を持っていた。その共同体への四旬節教書――歴代のアレクサンドリア総大司教が過越祭の日取りを定めた――の中で、彼は、教会生活に特別の配慮を示した。彼は、教会を再活性化させることに力を注ぎ、たとえば、ポワティエのヒラリウスやミラノのアンブロシウスがしたように、詩編による讃美歌を導入した。同時に彼は、『アントニオスの生涯』を執筆している。その著作の中で、彼は、教会にとって修道生活が重要な意味を持っていることを力説している。また彼は、重要な神学的著作を著わした。それは、『受肉論』、『反アリウス三論』である。後者の著作で彼は、キリストの神性を主張した。また『セラピオンへの手紙』では、明示的に述べていないとはいえ、聖霊が神であると言って、後の教義的発展の礎を置いた。

 

強硬なキュリロス

 アタナシオスの後を継いで412年にアレクサンドリアの総大司教になったキュリロスは、自分の教会の組織化に取り組み、392年にテオドシウス帝によって禁止された異教や異端に対して積極的に戦いを挑んだ。彼は、聖書を注解し、キリスト論と三位一体論に貢献した。アタナシオスのような闘志を持っていたが、いささか分別に欠けたキュリロスは、もっとも異論の多かった教父の一人である。実際、彼は、アレクサンドリアにおける最古のユダヤ人共同体に対する反ユダヤ大衆蜂起の一因をなした。コンスタンチノープルの総大司教であり、アンティオキアの飛びぬけた代弁者であったネストリオスに戦いを挑み、キュリロスは、ある意味で自分の司教座がコンスタンチノープルのそれを凌駕するすることを確かなものにしようとしていた。ネストリオスとの神学論争は、二人の人をめぐって行われた。キュリロスは、マリアを表わす「神の母」の通俗的使用に異議を申し立てていたネストリオスに反対した。実際、マリアについて語ることは、そのおん子キリストについて語ることでもあったのである。その論争を背景にして、アンティオキア学派とアレクサンドリア学派の違いが浮き彫りにされた。私たちは、ここでは詳細に入ることなく、アンティオキア学派は、キリストの人性に力点を置き、アレクサンドリア学派は、むしろその神性にも力点を置いていたと言うにとどめておこう。キュリロスは、431年のエフェソス公会議で行われたネストリオスの罷免に一役買った。その罷免は、穏やかなものではなかった。問題は再発し、キュリロスは罷免され、投獄された。しかし、彼は逃亡し、433年、アンティオキア派の人々との一致協約に署名した。そして彼は、キリスト論をより精密化した。

 

ヨハネ・クリュソストモスとアンティオキア学派

 キリストに関するアンティオキア学派の立場は、既にネストリオス以前に、モプスエスティアのテオロドロスによって弁護された。彼は、『受肉について』の中でそれを弁護している。また彼は、その有名な『要理教話』で、洗礼のための要理教育に重要な貢献をした。

 回心後にアンティオキア学派に属したヨハネ・クリュソストモスは、説教家として名声を博した。最初、彼は修道士として生活した後、398年にコンスタンチノープルの司教に指名された。彼の残した作品は、膨大である。彼の作品は次の通り。数多くの聖書注解、神の不可把握性についての教話、注目に値する要理教育、および幼児の教育、政治生活、典礼などの時事問題。彼が再編した典礼は、今でも東方の教会で使われている。

 

カッパドキアの三教父

 その精神においてヨハネ・クリュソストモスに近かったカッパドキアの三教父たちは、四世紀のカッパドキアのキリスト教に勢いを与えた。カッパドキアの三教父とは、カイサレイアのバシレイオスとニュッサのグレゴリオスの二兄弟、そして彼らの共通の友人であるナジアンゾスのグレゴリウスである。彼らの働きは、それぞれ特徴を異にしていた。

 カイサレイアのバシレイオスは、倦むことを知らぬ司牧者として、後に自分の名を冠することになる典礼や当時の政治家たちとの文通、カッパドキアへの修道制の導入、および強靭な思索によって、東方世界に影響を与えた。彼の思索は、聖霊の神性を定義しようと努めたコンスタンチノープル公会議を方向づけ、更には、イコン崇敬を定義し擁護するために787年に開催された第二ニカイア公会議にもその痕跡を残している。

 これに対して彼の友人であるナジアンゾスのグレゴリオスは、最初、ナジアンゾスの司教となり、次いで短期間ではあるがコンスタンチノープルの司教になった人物であるが、教会活動に関しては多少見劣りする。何よりも彼は、修辞学教師、神学者、詩人として友人のバシレイオスの著作、特に聖霊の神性に関する著作を補った。

 修辞学教師、詩人、哲学者であるニュッサのグレゴリオスは、その兄弟バシレイオスの著作を補い、知らしめた。彼は、最終的に観想生活に身を投ずることになるが、彼の司牧活動は注目に値する。

 彼らのたどった道は様々であるが、彼らは、教会への愛と修道生活への関心の点で一致している。彼らの理想は、上手に話しみごとに書く巧みさを除いてすべてを捨てた修道士司教という理想である。彼らの模範は、モーセであった。したがってニュッサのグレゴリオスが、その有名な『モーセの生涯』を書いたのは偶然ではない。言うなればカッパドキアの三教父たちは、モーセと同じ道をたどっていたのである。モーセがエジプトで世俗的な知恵を学んだのと同じように、彼らも世俗的な学識を修めた。モーセが砂漠に逃れ、燃える芝を見たのと同じように、彼らも司教職に就く前に修道生活を送ったのである。そしてその司教職は、モーセに委ねられた使命の反映であった。

 総じてカッパドキアの三教父は、三位一体神学に貢献したと言える。

 

西方教会

 同じくポワティエのヒラリウスも、その『三位一体論』で知られている。しかし、その著作は、その表題にもかかわらず、聖霊論と言うよりは、アリウス派に対する反駁書である。彼は、コンスタンス帝に書簡を送り、オリゲネスの影響の下に『詩編注解』を著わした。

 アリウス派の問題は、ミラノのアンブロシウスをも悩ました。彼は、受洗後一週間で司教に選ばれ、アリウス派の司教の後任となった。弁護士およびエミリア−リグリア州総督としての彼の経歴は、反アリウス論争で有利に働いた。彼は、アリウス派によって斥けられたおん子の神性を支持する目的で、『信仰について』という著作をグラチアヌス帝に献上した。また彼は、同帝に、聖霊の神性についての著作も献呈した。そのようにして彼は、反アリウス論争の強化に貢献したのである。しかし、ヴァレンチヌス二世が彼の後任に選出されるに及んで、状況は厳しいものになった。アンブロシウスは、教会堂をアリウス派の人々に譲り渡すのを拒否し、詩編と讃美歌を歌いつつ自分に忠実な人々と共に教会堂を占拠することに決めた。以来その讃美歌は、アンブロシウスの讃美歌と呼ばれるようになった。アンブロシウスは、疲れを知らぬ司牧者であり、教会の団結と貧しい人たちへの奉仕に心を砕いた。彼は、説教と個人的カリスマによって、アウグスティヌスの回心に決定的な影響を与えた人物である。

 しばしば西方の巨人と称されるアウグスティヌスは、後のキリスト教思想に大きな影響を与えた。彼は、もっとも多くの作品を残した教父たちの一人である。800を越える説教、およそ300の書簡、百余の論考がある。彼は、それらの作品の中で、神学のすべての根本問題を論じ、歴史神学の領域などの分野に旋風を巻き起こした。また彼の生涯は、よく知られている。彼の全生涯は、その『告白』に述べられているように、回心の体験で貫かれている。その著作は、現代の自伝とはおよそかけ離れているが、アウグスティヌスは、その著作の中で、自分の半生を神の光の下に読み直し、それによって被造物と創造主との生動的な関係を明らかにしているのである。

 告白という言葉は、アウグスティヌスにとって重い意味を持っていた。ラテン語の confiteri に由来するその言葉は、罪の吐露を意味すると共に、創造主への感謝と賛美、信仰告白をも意味していたのである。アウグスティヌスは、その著作を告白と呼ぶことによって、初めて霊的自伝というジャンルを作り出した。

 

ローマからダマスコへ

 教皇ダマススの秘書であったヒエロニュムスは、アウグスティヌスと同時代人である。彼は、何よりも聖書のラテン語訳ヴルガタ版で知られている。また彼は、聖書研究会と呼んでもいいような一団を指導した。ダマスス教皇の死後、彼はベツレヘムに赴き、ローマの貴婦人たちを含む幾人かの弟子たちと共にキリスト降誕教会の近くに留まって、祈りと勉学の生活を送った。彼は、数多くの書簡を通してローマの人々と連絡を保ち、410年以後、ゲルマン民族の侵攻を受けてローマを去った難民たちを受け入れた。

 偉大なラテン教父は、まだ幾人か挙げられる。教皇大レオは、カルケドン公会議で決定的な役割を果たした。彼は、『フラヴィアヌスへの書簡』と呼ばれる手紙で、キリストのペルソナの解釈をめぐって対立していたアンティオキア派とアレクサンドリア派に和解案を示し、キリストのペルソナの一性を思い起こさせた。

 ガリアでは、アルルの司教カイサリウスがゲルマン民族の進入時に住民を守っており、また修道規則の制定者ともなった。

 セヴィリアのイシドルスは、『語源』を著わした。それは、古代キリスト教文化の記念碑的作品になっている。

 東方では、ダマスコのヨハネが最後の偉大な教父として現れた。彼はイスラムとの対話を試みた最初の人物の一人である。650年頃、シリアで、カリフに仕えるキリスト者の家庭に生まれ、父親の後を継いでカリフの「財務官」となった。しかし、やがてイスラム政府の高官たち(les Omeyyades)は、キリスト者に対する寛容政策を棄て、背教しなければ政府から追放すると脅してきた。ヨハネは、躊躇しなかった。彼は持てる財産を貧しい人たちに施与し、イェリコ近傍のマル・サバス修道院に入院した。彼はそこで、『知識の源』と題する著作を著わし、また、八世紀に東方を揺るがした聖像破壊論争でその名をとどろかせた。彼は、聖像崇拝を正当化し、イコンに与えられる崇敬は、偶像崇拝に値せず、むしろイコンによって表わされた原型に向かっているのだと主張した。ほどなくして、第二ニカイア公会議は、彼の著作を承認した。

 

砂漠の師父

 三世紀の終わりに発生した修道院運動の原因は、あまりよくわかっていない。洗礼の約束を充全に生きようとする福音的ラディカリスムに動かされた幾人もの人々が砂漠の中へと入っていった。修道院運動は、キュロスのテオドレトスが『シリアの修道士の歴史』の中で述べているように、先ずはシリアに、次にエジプト、更にカッパドキア、パレスチナ、ガリア、アフリカ、イタリア、イスパニアへと次々に広まっていった。男女の修道者たちは、エッセネ派の人たちに源を発する禁欲的伝統をよみがえらせた。しかし、それと共に修道者たちは、キリスト教が帝国内で大々的に認められ、テオドシウス帝の時に国教に格上げされたとしても、キリスト者は地上の巡礼者に過ぎないことを思い起こさせようとしていた。

 しかし、当時から「修道士の父」と称せられていたアントニオスを駆り立てたのは、そのような展望ではなかった。福音に記された金持ちの青年の喩に則った彼の決断は、ある種の孤独の内に福音のラディカリズムを生きようとする彼の個人的な回心の結果であった。伝記によると、静修を終えて人前に現れたアントニオスは、まるでもう一人のキリストででもあるかのように、完成の域に達した人として人々の目に写った。しかし、アタナシオスがその『アントニオスの生涯』で、彼の名声を高め、彼を不滅のものにしても、彼だけが、エジプトの砂漠の修道士だったわけではない。彼は、世俗から孤独の内に退く隠世修道生活を開始しただけである。

 同じ頃、もう一つの修道形態であるパコミオスの修道制がエジプトの砂漠に展開した。彼は、共住修道生活を創始し、大修道院長を中心にした共同生活を選ぶことによって、エルサレムの初代キリスト教共同体の理想を追求した。霊の息吹に耳を傾けつつ行われるその修道形態は、急速に知れ渡り、パコミオスの諸修道院は、時に幾百もの修道者を集め、砂漠をいわば都市に変えた。四世紀は、エジプトにおけるその修道生活の開花に大いに色づけられており、それはアレクサンドリアの歴代の総大司教たちを通してその時代の教会に取り込まれていった。

 エジプトの修道制は、『師父たちの言葉』によって絶えず影響を及ぼしてきた。その書物は、砂漠の師父たちの箴言で、今日の私たちにも語るものを持っている。しかし、そのような修道制が、修道生活の唯一の火種だったわけではない。カッパドキアでは、バシレイオスが、小さな共同体を幾つか作り、みずから編纂した修道規則に則ってそれらの小共同体と実り豊かな対話を行っていた。

 

西方における修道制

 師父たちの旅行や追放は、修道制を西方に広めるのに役立った。ガリアで最初に建てられた修道院は、トゥールのマルティヌスによって361年に創設されたリグゲの修道院である。316年頃、現在のハンガリーに生まれたマルティヌスは、自分のマントをアミアンの貧者と共有したことで早くから知られていた。彼は、ポワティエのヒラリウスの弟子になるために軍人としての地位を捨てた。ヒラリウスが追放されている間、マルティヌスは、修道生活に励み、リグゲの修道院を創設し、やがてその修道院には多くの弟子たちが流れ込んだ。371年、トゥールのキリスト者たちは、マルティヌスを自分たちの司教にした。そしてマルティヌスは、トゥールの近くにあるマルムーチエに小さな共同体を作り、修道生活の継続を図った。アウグスティヌスの言葉を借用すれば、「是が非でも修道士、自分の意に反して司教」となったマルティヌスは、異彩を放っていた。しかし、彼がガリアに導入した修道生活には、中傷がないわけではなかった。詩人アウゾヌスは、彼の修道生活に、古代文明の諸価値の否定と落伍者の選択を見て取った。

 修道制は、四世紀から六世紀まで、キリスト教西方で隆盛を見た。そのことは、何よりもアウグスティヌス、カッシアヌス、アルルのカイサリウス、ヌルシアのベネディクトゥスらに代表される卓越した修道者の聖性に負っていた。アウグスティヌスは、マルティヌスやカッパドキアの三教父のように、修道者司教であった。アウグスティヌスは、自分の共同体のために修道規則を表わした。全面的に愛徳に基づくその修道規則は、キリスト教全体に影響を及ぼし続けている。

 しばらくして、ヨハネ・カッシアヌスが現れた。彼は、生涯の一時期をエジプトで過ごし、修道制に沸いた四世紀のエジプトと故郷のプロヴァンスとの橋渡しをした。パレスチナの修道制と、エジプトの修道士らと共住修道生活者たちの生き様を知り、更にコンスタンチノープルでは、ヨハネ・クリュソストモスの下でバシレイオスの修道制を知ったカッシアヌスは、それらの修道生活の様々な潮流を、マルセイユに始めた男女の修道院、すなわちサン・ヴィクトール修道院とサン・サヴール修道院で合流させた。彼は、厳密な意味での修道規則を彼らに与えてはいない。しかし、彼の有名な『講義』が示しているように、自分の貴重な体験を彼らに残した。彼は、その『講義』の中で、南仏の司教たち、およびレランスの修道院長たちの求めに応じて、砂漠の師父たちの言葉を語っている。勿論、マルセイユだけが、東と西の交差点、アレクサンドリアに通じる唯一の港町だったわけではない。カッシアヌスは、ホノラトゥスの援助を得て、レランスのすぐ近くに新しい「スケテの砂漠」を作った。これは、今日でも修道生活の中心である。

 次の世紀には、ヌルシアのベネディクトゥスが現れた。彼は、その有名な『規則』によって西方修道制の規則制定者となった。彼は、その『規則』の中で、祈りと労働をみごとに調和させている。

 なお、古代文明の遺産を今日に伝える役目を果たした中世の修道院が証しているように、修道制は、キリスト教文化の躍進に大いに貢献した。

 

教父と第二バチカン公会議

 教父たちは、最初の数世紀の教会に大きな影響を与えた。初めの内は、教父たちは、帝国内で虐げられ理解されなかったキリスト者たちを弁護し、共同体の組織に礎を築いた。時の経過と共に正統と異端の問題が生じ、彼らは、神学の中心的諸原理を少しずつ提示しつつ、数々の異端と戦った。彼らは、公会議の主要な当事者であった。彼らの著作は中世を通じて読み継がれ、中世の発展を支えた。彼らの内の幾人か、たとえばオリゲネスやニュッサのグレゴリオスなどの著作は、ラテン語に翻訳された。やがて彼らは忘れ去られたが、十七世紀に到って再発見の時期を迎え、おびただしい数の出版物となって現れた。

 二十世紀に盛んに見られた教父たちへの回帰は、過ぎ去った過去への郷愁によるものでもなければ、考古学的な好奇心に駆られてのことでもなかった。それはむしろ、二十世紀の世界の数々の期待に応えようとする教会の躍進によってもたらされたものである。むろん教父たちは、すべての回答を用意しているわけではないし、そんなことは期待すべくもない。とはいえ、ガリアの偉大な教父たちを例に挙げて言えば、エイレナイオス、ヒラリウス、カッシアヌスは、私たちに、勇気と大胆さに満ちた道を示してくれる。私たちは、彼らを見習い、福音という泉から水を汲み、新たな宣教の勇気を持とうではありませんか。福音は飲み干されることを待っているのです。教父たちは、福音に生き、キリストへの愛に生きた。彼らはキリストの神秘を探り、その成果を記念すべき書物に残した。それらの書物は読み返しに値する。なぜならそれらの書物は、未だ死に絶えない異端の数々へと私たちの目を見開かせてくれるからである。今日でも私たちは、旧約聖書やイエズスの人間性が時として過小に評価されているのを目にする。

 典礼刷新運動は、教父たちの貢献がなければなし得なかった。たとえば、教父たちのおかげで、教会は、過越の聖なる三日間に再び中心的な位置を与えることができた。

 今日でも教父たちは、み言葉のかぐわしい香を放っており、私たちは彼らのおかげで、キリスト教生活のダイナミズムに参入することができるのであり、また、たとえば洗礼の象徴的意義などを再発見することができる。

 更に教父たちは、エキュメニズムの対話においても仲介者としての役割を果たしてくれる。教会の分裂を知らない時代に生きた彼らは、私たちに教会の一致の道を開いている。

 彼らは、数々の聖書注解書を通して神のみ言葉に奥行きを与えてくれた。また教義的な次元では、彼らは、開拓者であった。彼らは、自分たちの同時代人に、創造や救いなどが何を意味するかを理解させようと腐心していた。彼らは、キリスト者が三つの神を崇拝しているのではなく、三つの位格における唯一の神を崇拝していることを説明し、キリストは神であり人であることを明らかにし、人間のこの上ない尊さを明らかにしたのである。聖書の回復の後に、教父の回復が続いている。その回復運動は、解釈と教義と霊性がまだ分かたれず、人間の全体が視野に収められていた世界へと私たちを案内するだろう。私たちは、教父という伝統の角の親石を再発見しようではありませんか。

 二十世紀のキリスト教世界の一大事件であった第二バチカン公会議が、聖書の言葉ばかりでなく、教父たちの言葉で意見を述べるために、どれほど大きな努力を払ったかに、余り大きな関心は集まらなかった。その公会議を開催するにあたり、教皇ヨハネ二十三世は、キリスト教が、信仰の遺産をいささかも損なうことなく、みずからの言葉を現代世界に適応することが大切だと述べた。現代世界への教会の適応は、実は、教父たちの態度決定に基づいている。それは、ジャン・ダニエル、イヴ・コンガール、アンリ・ドゥ・リュバクが中心となって実現した教会の教父たちに対する認識の刷新によって用意されたものである。他方、そのような適応は、過去の数々の偉大なエキュメニカル公会議の意図にも合致している。ヨハネ二十三世は、第二バチカン公会議を、古代教会の諸公会議と同じように、エキュメニカル公会議とすることにより、過去の偉大な諸エキュメニカル公会議との結び付きを再び取り戻そうとした。

 

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