朱門岩夫

初期キリスト教の声(その1)

 

1998年5月17日某公的機関紙に掲載

最終更新日19/01/30


ことは、み言葉と教会の教え、そして教父たちの教えだけであると常々考えておりましたので、どうも上手く私見を述べることができ

 

 公に述べるべき

ません。そこで私が細細と研究しております司祭オリゲネスの教話の一部をご紹介することにいたします。オリゲネスは三世紀前半に近東で活躍したキリスト教著作家・司祭でした。彼は六世紀半ば以降、最近まで異端者として取り扱われましたが、一九八五年の『教会の祈り』(ラテン語規範版)では「司祭」にまで名誉を回復いたしました。以下に引用しますのは、ギリシア語で残された数少ない著作の一つ『エレミア書講話』の一節です。

 

 『マタイによる福音』の中に、私たちの救い主がガリラヤの湖のほとりに来て、「シモンとその兄弟アンデレとが湖に投網を打っているのをご覧になった。二人は漁師であった」(マタイ四・一八)と書き記されています。そして(聖書の)言葉は、救い主が彼らを見てこう言ったと述べています。すなわち「私について来なさい。そうすれば私はあなたたちを、人間をすなどる漁師にしよう」と。「すると二人は網をそのままにして、イエスに従った」(マタイ四・一九~二〇)。そしてイエスは彼らに漁を再開させ、人間をすなどらせた。またイエスは「他の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが父と共に船の中で網の手入れをしているのを見つけ」、彼らをも、同じ知識に「お召しになり」(マタイ四・二一)、彼らを人間をすなどる漁師にしました。もしもある人たちが、「網」のように織られたみ言葉の恵み、それも「投網」のように神聖な書物から織り合わされたみ言葉の恵みを神から得て、その編み物を聞き手の人々の魂に投げかけて取り囲むのを考えてみますなら、またこのことが、イエスの教えられた知識に則して巧みに行われたのを考えてみますと、それは当時にだけ起こったことでないのがわかります。私たちの救い主は今でも、人間をすなどる漁師たちを教育して、彼らを遣わし、私たちを海から上がらせ、その激しい波浪を逃れることができるようになさっているのです。

 ところで、引き網や投網あるいは釣り針に掛かった魂のない魚たちは死んでしまい、生命がその死に続きません。ところがキリストの漁師たちによって集められた人は、海から上ります。そしてその人は死にますが、この世に対して死ぬのです。罪に対して死ぬのです。そしてこの世と罪に対して死んだ後、神のみ言葉によって生かされ、別の生命を受け取るのです。――中略――あなたは、イエスの弟子たちの網に掛かって海から上がり、上がるとともに魂を変えます。あなたはもやは、海の塩辛い波間に暮らす魚ではありません。あなたの魂は直ちに変わり、変容し、以前よりも何かしらいっそう優れ、いっそう神的なものになるのです。魂が変容し、変化することについて、パウロがこう言うのをお聞きください。「そして私たちは皆、顔の覆いを取り除かれて、主の栄光を鏡映しながら、主の霊によって栄光から栄光へと、主と同じ姿に変容していくのです」(一コリント三・一八)。