「ですから聖書にエロースと言われていようと、アガペーと言われていようと、たいした違いはありません。勿論、神ご自身がアガペーと呼ばれていることからもわかりますように、アガペーという言葉の方が高く掲げられているのも確かです。まさに、ヨハネが述べています、『愛(アガペー)する者たちよ、わたしたちは互いに愛(アガペー)し合いましょう。愛(アガペー)は神から出るものだからです。すべて愛(アガペー)する者は、神から生まれた者であって、神を知っています。愛(アガペー)さない神を知りません。神はアガペーだからです』(I Jn.4,7-8)」。
「ですから、神が恋い求められる(エロース)と言われようと、神が愛される(アガペー)と言われようと、たいした違いはありません。また、ヨハネが神をアガペーと呼んだのに倣って、神をエロースと呼んでも別段非難されないとわたしは思っています」。 また、H.クルゼル師も同様の見解を提出し、オリゲネスの弟子グレゴリオス・タウマトゥルゴスのある著作の真作性を検討した『不動な方の苦しみ』という小論では、オリゲネスを引き合いに出しつつ、神の情念は「ある根本的な苦しみ」「二つの契約の書の本質的なものを表している」と述べている。 すなわちリュバック師とクルゼル師とによると、オリゲネスにおける神の愛は、アパテイアを超えるある神秘的なパトスであり、それは人類の救いとあがないのオイコノミアの内に啓示された神の測りがたいいつくしみの中に洞察されるものなのである。
しかしながら文献への忠実さと記述の的確さにおいて他に類例を見ない彼らの瞠目すべき優れた研究にも、彼らがいくらか結論を急ぎ過ぎて、充分な議論を尽くしていない点がある。それは、彼らの研究の出発点をなした神の諸情念、つまり具体的には、神の怒り、憤り、嫉み、憎しみ、悲しみ、喜び、後悔などの諸情念と、その根底に潜む神の測りがたいいつくしみとをオリゲネスの思想全体の中で総合的に結びつけ、彼の思想全体の中で、神の情念をいつくしみ深い神の愛の苦しみとして特定し確証するという作業が充分に行われていないという点である。そこで以下では、人類の救いとあがないのオイコノミアの内に現れるオリゲネスの神の諸情念とそこに潜むいつくしみの関係を彼の作品の中に追究して、果たしてオリゲネスが本当に神の愛の苦しみを認めていたのかを検討することにしたい。
次へ