第3節

神の自己啓示の任意性とエネルゲイアそれ自体

 

 これまで私たちは、オリゲネスの幾つかの著作から関係する箇所を引用して、彼が、オイコノミアの内にあって宇宙万物に内在して働く神のデュナミス・エネルゲイアを、神ご自身と見做していることを明らかにした。しかしながら私たちは、そのことから逆に、オリゲネスが、宇宙万物に見出だされるすべてのデュナミス・エネルゲイアが、神であると考えていたと判断することはできない。その根拠として私たちは、オリゲネスの二つの見解を挙げることができるだろう。

 先ず、オリゲネスの諸著作の中で繰り返し述べられる、

 「このように、ただおん子のみがおん父を知り、おん子が(顕そうと)望む人に(おん父)を啓示するように(Mt.11,27;Lc.10.22)、ただ聖霊のみが、神の深みまでも究め(I Cor.2,10)、聖霊が(顕そうと)望む人に神を顕すと理解せねばならない」(8)。

という言葉や、

 「私たちは、目を向ければ見えるものを(必ず)見ると言われていますが、それと同じ意味で自分の精神によって(だけで)先へ進んでも、神を見る人は誰もいません。しかし神はまた、ご自分が見られることをよしと判断された人たちに(だけ)、ご自分を啓示して、(その人たちに)見られるのです。実際、神を見た人がいるとすれば、その人は、神がどのようなお方であり、どれほどのお方であるのかを観想したことになるでしょう。しかしその人が(神を)見るのではなくて、神が、ご自身を示し、造られた者たちが受け容れことができるかぎりで、ご自分を観想のために差し出すのです」(9)。

という言葉が、明らかに示しているように、オリゲネスは、神の自己啓示における任意性と、それから帰結する、神認識における神の側のイニシアティヴを、常に考えているのである(10)。したがってオリゲネスのその見解によれば、神は、そのデュナミス・エネルゲイアにおいて、自らを必然的に顕わし、ために被造物に知られるとはかぎらない。それは、最終的には、神の自己啓示の意思にかかっているのである。

  次に、オリゲネスは、『諸原理について』第3巻第1章の20で、新約聖書『ピリピの人たちへの手紙』第2章13節の「あなた方の内で、ご自分のよしとするままに、意思することも働くことも(to. evnergei/n)働く方は、神だからです」という言葉を引き合いに出して「もし意思することが神に由来し、また、働くことも神に由来するなら、たとえ私たちが、悪いことを意思しても、また、悪いことを働いても、それらは、神から私たちに由来したのである。しかしもしそうであるなら、私たちは自由意思を持たない」と主張する人々に対して、次のように反論する。

 「使徒(パウロ)のその言葉は、悪いことを意思することが、神に由来したり、善いことを意思することが、神に由来すると言っているのではない。同様に、より優れたことやより劣ったことを働くことが、神に由来すると言っているのではない。それは、意思すること一般と働くこと一般とが、神に由来すると言っているのである」。意思することと働くことを善くも悪くも使うのは、神ではなくて、私たち自身である。

 このように、オリゲネスは、被造的世界に見られるいかなる種類の働きも、その働きそれ自体としては、究極的には神に由来するものではあるが、それがいかなる仕方で使われるかは、被造物の自由意思によると考えているのである。オリゲネスのその見解に従えば、たとえば、悪魔の働きは(11)、働きそれ自体としては神に由来しているが、神がそこにおいて働く神の働きではないということになるだろう。

 したがってそれらの二つの論拠から、被造的世界に行なわれる働きが、ことごとく神の、神としての働きなのではなく、神の働きが、神の、神としての働きとして知られるには、神の側の自由な判断による自己啓示が必要だとオリゲネスが考えていることがわかる。オリゲネスによれば、ただ宇宙万物の創造と管理と救いのオイコノミアの内に働くものと顕らかに認められ(12)、しかもそこに神の任意の自己啓示がなされた働きだけが、神の、神としての働きとして承認されるのである。

 かくして私たちは、ただオイコノミアの内にのみ働く神が、そのデュナミス・エネルゲイアにおいて、そしてデュナミス・エネルゲイアそのものとして、宇宙万物に内在して働き、それらを管理しているとオリゲネスによって考えられている、と断定することができる。視点を被造物に移してそのことを言い換えれば、神が、オイコノミアの内で、デュナミス・エネルゲイアとして、宇宙万物に内在するとは、全被造物が、この世界の内で、神である神のデュナミス・エネルゲイアに取り囲まれ、それと直に接しているということを意味しているのである(13)。これで、本論文第1章で提起された神認識の第2の問い、すなわち「神についての何がしは如何にして認識され得るか」という問いは、二、三の問題点を除いて、その大筋において解かれたと言ってよい。実際、オリゲネスによれば、その認識可能性は、宇宙万物に内在してそれを満たし、宇宙万物の創造と管理、そしてその救いのオイコノミアのために働く、神である神のデュナミス・エネルゲイアによって、被造物に用意されているのである。

 もちろん私は、オリゲネスがそうした神認識の問題そのものを提起して、主題的にそれを取り扱っていると言うつもりはない。しかし彼が神についての「何がしか」を認識することができると言うとき、彼が念頭に置き前提にしていたものは、神が、その本性においては、被造物に近寄り難き超越者として留まりながらも、なおデュナミス・エネルゲイアにおいて、また、そういうものとして被造的世界に内在して、すべての被造物と直に交流している事実であるということ、そのことを私は明らかにしたかったのである。

 

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