第3章
神であるデュナミス
宇宙万物の秩序正しい整然とした運行とその美しさとが、すべてのものの造り主なる神のなさる働き・エネルゲイアであるならば、私たちは、オリゲネスの神認識の見解に従って、宇宙万物の創造と管理と救済の営み(オイコノミア)の内に見出だされる神のエネルゲイアを通して、少なくとも神についてある程度のこと、すなわち「神の何がしか」を認識することができるはずである。その点で、本論文の前章の第1節で述べたように、オリゲネスの神学的思想の中で私たちが提起した神認識の第二の問い、すなわち「神についての何がしかはいかにして認識され得るのか」という問いは、「半ば」解かれたと言ってよかった。他方それでも、神の本性は、有限な人間の精神には把握され得ないのであるから、神のエネルゲイアに神の本性の認識可能性の根拠を求めて、それによって神認識の第一の問い、「神の本性はいかにして認識され得るのか」という問いを解くことができる、と即座に言い切ることができるものでもない。しかしながら、神認識の第二の問いの方にも、それに劣らずなお検討すべき課題が残されている。なるほど「神の何がしか」の自然的認識が、神のエネルゲイアを通して可能であるとオリゲネスによって主張されているのを私たちは見た。しかし神についてはじめから無知である者が、そのエネルゲイアに接したとき、それを一体「何の」あるいは「誰の」エネルゲイアと言うのであろうか。実際、神を知らない者が、現前する何らかのエネルゲイアからその原因者を推論して、その原因者についてのある種の認識を獲ることができるとしても、当の神ご自身が何らかの形で予め知られているのでなければ、彼は、自らが獲得し得たある種の認識を、必ずしも当のエネルゲイアの行為者である神ご自身についてのある種の認識として、同定するとは限らないのである。ここで私たちは、「神の何がしか」がそれによって認識されるとされる神のエネルゲイアと神ご自身との関係を、オリゲネスがどう捉えているかを見極めてみる必要があるだろう。