キリストの肉

キリスト教的思想の歩みは、「アダム」という名は「アダマ」(土地)から引き出されたという周知の同一視によって促進にされたように見える。もしも「土地」が、それによってアダムが形成されたところの材料を表すとすれば、それはアダムの肉の象徴、人間の肉の象徴であった。したがって、約束された土地は、新しいアダムの肉、すなわち、キリストの肉を表すことができた。その同一視は、バルナバの手紙の中で、テルトゥリアヌスの許で、ヒッポリュトスの許で、為された。偽バルナバは、アダムの名前と土地の象徴体系との間に明白な関係を確立した。

実際、この(偽バルナバの)テキスト――それは、日付において最初のものである古い――は、もしも人がその表現のしばしば曖昧な性格に惑わされなければ、約束された土地についての非常に豊かで詳細な解釈を提供してくれる。約束された土地は、その人間的本性の中のキリストを表象するばかりでなく、新しい創造の一切、すなわち、キリストにおいて再創造されたすべてのキリスト者たちを表象している。その第二の創造は、預言者の次の託宣が関係している:「あなた方は、乳と蜜の流れる土地の中に入りなさい」(Barn.6,13)。この卓越した土地は、教会である。その中に神はご自分の聖なる神殿として住み、新受洗者たちが入る(Barn.6,15-16)。こうしてバルナバにとって、土地は、教会としてのキリストとキリスト者たちとを表象する。

Dahlとともに、バルナバのこの一節の秘蹟的射程とその終末論的射程を強調しなければならない[1]。他ならぬ洗礼によって、キリスト者たちは卓越した土地の中に案内された。彼らは、まだ乳と蜜を必要とする新生児である(Barn.6,17)。彼らが完全に大人になるとき、主の(旧約の)契約の諸々の約束によってアダムとアブラハムに約束された世界の普遍的な支配を獲得するだろう(Barn.6,12-19)。そのテキストの中に、土地すなわちキリストという中心的キリスト的テーマをめぐるキリスト教的諸解釈の自発的開花を見いだすことは、驚きである。土地、それは教会であり、キリスト者たちである。洗礼は、始まりに過ぎない。(キリスト者たちは)約束された嗣業地の全面的支配に至るまで、土地の所有の中で絶えず成長しなければならない。

テルトゥリアヌスの証言は、バルナバの証言に非常に似通っている。テルトゥリアヌスは、ヨシュアの土地に関係する土地の予型論を知っていた。しかし彼も、やはり(バルナバと)同じく、文字取りにキリスト教的なテーマを発展させる。彼は、肉の復活について(De carnis resurrectione)の中で、肉は復活しなければならないということを証明しようとして、論法――その根本的諸着想がバルナバのそれらと驚くほど似たところの論法――を利用している。出発点は同じである:すなわち彼は、創世記や詩編や預言書の幾つものテキストに従って、土地と人間の肉との同一視である。彼は付け加える:「ユダヤ人たちは、地的な諸々の善を希望しているだけで、天的な諸々の善を失っている。なぜなら彼らは、天から来るであろうパン、神的な塗油の油、霊の水、魂の葡萄酒――キリストの葡萄の木からその力を得る魂の葡萄酒――が彼に約束されていることを知らないからである。彼らは、聖なる土地が自分たちのこの土地であると思っている。しかしその土地は、むしろキリストの肉と解釈されねばならない。したがって、キリストを着たすべての人たちの許でも、聖なる土地を見なければならない。それは、聖霊の居住によって本当に聖なる土地であり、我々の希望の甘美さの故に本当に乳と蜜が流れる土地、神との親密さの故に本当のユダヤである土地である。勿論それは、外面的なユダヤ人である人にとってではなく、心の秘密の中でユダヤ人である人にとってである。したがって、その土地は、神の神殿であると同時にエルサレムである。・・・ 救いは、現在の世界とともに過ぎ去らねばならぬ土地に約束されていない[2]」。

したがってテルトゥリアヌスは、土地〓肉の象徴を容易に取り上げ、しかもバルナバよりも明晰に展開する。土地、それは主の肉であり、キリストを着たすべての人たちでもあり、聖霊の居住によって真実に聖なる土地でもある。おのずからテルトゥリアヌスは、神殿の聖書的な象徴体系に符合する[3]。実際、神殿のテーマとエルサレムのテーマと聖なる土地のテーマは、同心円的で、部分的に互いに重なり合っている。そのテキストの要点は、バルナバの許でと同様に終末論的であり、端的に肉の復活に方向付けられている。

キリストによって与えられる諸々の霊的な賜物――預言的文学の中で、土地の諸々の伝統的な産物、パン、油、水、葡萄酒(それらはまたキリスト教的な諸々の秘蹟の材料そのものである)と混ざり合う諸々の賜物――を枚挙することによって、テルトゥリアヌスは、諸々の秘蹟への参与こそ、約束された土地の諸々の善に参与させると示唆する。別の箇所で彼は、洗礼式への暗示の中で、約束された土地の中への新受洗者の進入を象徴する乳と蜜の受領に言及している[4]



[1] N.A.Dahl, <<La terre où coulent le lait et le miel>>, dans Mélanges Goguel, Aux sources de la tradition chrétienne, Neuchâtel Paris, 1950, p.62-70.

[2] De carnis resurrectione,26(CSEL,47,3,p.62-64); 6(p.33-34); De Carne Christi,9(CSEL,70,215).

[3] Cf.Jn.2,21; 1Cor.3,16; Ep2,21; 1P.2,5...

[4] De Corona,3.

 

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