ヨシュアとイエス

この(ヘブライ人への)手紙の著者が、イエスとヨシュアの平行関係をどの程度において確立しているかを決めることは難しい。しかし、この書簡の第3章と第4章の中に、一種の内的な圧力によって――あたかも諸々の事柄の力それ自体によって――ヨシュアとイエスの言外の関係がこの書簡の著者によって表明されていると言えなくもない。約束された土地のテーマは、実際、ヨシュアとモーセの対比――この対比は古代要理教育の定数の一つである――の機会に導入されている。著者は、モーセに対するキリストの勝利に満ちた優越、レビ的祭司職に対する永遠の大祭司の勝利に満ちた優越を視野に入れている。キリストこそ、約束された永遠の嗣業地を選ばれた人たちにもたらす(9,15)。彼こそ、神の民に留保された安息日の真の休息の中に彼らを進入させることができた(4,9-11)。これは、砂漠の世代を休息の中に進入させることができなかったモーセに対する輝かしい優越である。こうして、モーセに取って代わった同名の人物の像が透かし見えてくる。この人物を背景に据えて、この書簡の著者は直ちに言明する:「イエス(ヨシュア)は、彼らに休息を与えなかった」と。

ここで鮮烈に感じられることは、(ヘブライ人への手紙の著者による)この形象(すなわちヨシュア像)の不完全な性格である。我々は、そこに、彼の否定的な価値を指摘できるだろう。そこでは、ヨシュアが行ったことではなく、彼が行わなかったことが強調されている。その形象は、キリストの偉大さの前で欠けており、欠陥がある。それは教父たちの見方――そして、オリゲネスの見方――と異なった見方である。教父たちは、出発点として、聖書のヨシュアを取るが、彼の位格を賞揚するのに前向きである。なぜなら彼らは、ヌンの子ヨシュアのすべての所作を通して、神の子イエスの所作を透かし見るだろうからである。

とはいえ、ヘブライ人への手紙のその個所は、ヨシュアの予型論の肯定的な諸要素――ヨシュアとモーセとの対比、約束された土地の中への導き手としてのヨシュアの役割――を間接的に暗示している。それらは、引き続き保持されるだろう。ヨシュア(ヌンの子)とイエス(メシア)という二つの名前の同名性が、そのすべての内的な含意とともに、ヘブライ人たちへの手紙の非常に慧眼な著者の意識を免れていたと言うことも、やはり難しいように我々には見える。なぜなら、その著者の明白な目的は、キリストの中に偉大な解放者と救いの原理を示すことだからである[1]。その意味での一つの証拠は、同書簡4,8でイエス(ヨシュア)が言及された後に、4,14でイエスの名が「神の子イエス」という同格辞とともに再び取り上げられていることである。とにかく、そのような名前の類似性が、二世紀の教父たち――すなわち、バルナバとユスティノス――の許で大きな役割を演じていたにちがいない。以下に我々は、その概要を述べるにどどめる。

ヨシュアの予型論についての絶対的に明白な最初の証言は、バルナバのそれである。神の子イエスは、予め肉の中で予型によって表明されていた。その予型は、ヌンの子である。モーセは彼に、ヨシュアという預言的な名前を与えた(Nb.13,16)。ヨシュアは、諸々の悪しき力の形象であるアマレクに勝利した(Barn.12,8-10)。アマレクのテーマは、オリゲネスの許で、ヌンの子ヨシュアの神秘の偉大な諸側面の一つとして再び見出されるだろう[2]

ユスティノスの許で、ヨシュアの予型論は、反ユダヤ論争の中での戦闘の一つの武器になる。そして、(ヨシュアとイエスという)二つの名前の同名性は、彼の論証の諸々の強力な論拠の一つである。イエスの名が既に旧約の中で預言されていたこと、恐るべき力の名前として――神の名前そのものとして!――預言されていたことを、トリュフォンに証明できるのは、何と幸運なことか。出エジプト記23,20に関する彼の注解は、そうなっている:「見よ、私は私の使いをあなたの前に派遣する。・・・私があなたのために用意した地域の中にあなたを導くため。・・・私の名前は彼の上にある」。「では、あなた方の父祖たちをその地域にの中に導いた方はどのような方だろうか」と、ユスティノスは注解する。彼がイエスであることは、明白である。神のみ言葉は、既に神秘的な仕方で、自分の名前がイエスであることを表明していた[3]。他方でユスティノスは、モーセがホシェアの名前を理由なくイエスの名前に変えなかった(Nb.13,16)という決定的な論証、そして、この名前の変容は重大な預言的意義を含むという決定的な論拠に幾度も立ち返る[4]。トリュフォンは、イエスの名前のこの議論に揺り動かされ、譲歩しそうになった[5]。その論争的な傾向は、ユスティノスが旧約の中のヨシュアの名前に与えている途方もなく大きな場所を示している。他方で彼は、理解力のない聴衆たちを前にして、キリストの先取りされたこの啓示の文字通りに霊的な側面を強調することを慎んでいる[6]

しかしながら、ユスティノスは、それらの護教的な展開に、より神秘的な射程の諸々の考察を間接的に付け加える。それは、アマレクのエピソードである(Dial.131,4-5 et 49,7-8)。これは、悪霊どもに対するキリストの勝利――最初の臨在での密やかな勝利、第二の臨在では輝かしく決定的な勝利――の形象である。このように、旧約の中で予め形象された神秘は、時の終わりにおいて完全に啓示される前に、最初の臨在において既に成し遂げられていた。あるいはそれは、ヨシュアによって命令された第二の割礼のまったく新しい解釈である。それは、キリストによって執行される霊的な割礼――洗礼としてであれ、キリスト者たちの心の中で日毎に実現される浄化としてであれ――の形象である。ユスティノスは次のように言う:

ヨシュアは、「石の諸々の小刀で第二の割礼を民に施した。それは、イエス・キリストご自身が我々に施す第二の割礼の告知である。・・・石の諸々の小刀は、我らの主イエスの諸々の言葉を表している」(Dial.,113,6)。「我々の諸々の心は、一切の邪悪さを割礼によって切除しているのだから、我々はあの美しい石の名前のために喜んで死ぬことができる。その石から、それを通して宇宙の父を愛する人たちの諸々の心に向けて、生ける水がほとばしり出る。宇宙の父は、命の水を飲むことを欲する人たちを潤す」(Dial.,11,4)[7]

約束された土地のテーマの場合と同様に、旧約の諸々のエピソードを前にしてキリスト教的意識が形成する諸々の自然発生的な範疇が、容易に引き出される:すなわち、それらのエピソードは、キリストによって成し遂げられた秘蹟的ないしは霊的な神秘の象徴になる。しかし終末論的な予型論が、ユスティノスの許で支配的になっている:すなわち、ヨシュアは、土地の分割を執行した;そして彼は、太陽を止めた;第二の臨在において、キリストは、終わりのない嗣業地を分割しに来るだろう;そして彼は、エルサレムで永遠の光のごとく輝くだろう[8]

この最後のテキストの中で、ユスティノスは、モーセでなくヨシュアが、聖なる土地の中に民を導くことができたことも示していた。このようにしてオリゲネス以前に、ユスティノスの許で、モーセとの対比のテーマ、土地の分割のテーマ、第二の割礼のテーマ、悪の諸力に対する勝利のテーマ、キリスト〓太陽のテーマが素描されている。

ユスティノスの後、ヨシュアに固有の予型論に関して新しい諸側面を、人はほとんど見出さないだろう。しかしながら我々は、この予型論の伝統的性格にとって重要な証言――リヨンのエイレナイオスの証言――を指摘しよう。実際エイレナイオスは、Demonstratio Apostolicaというキリスト教信仰の要理教育の中で、ヨシュアという人物の予型的性格を強調している:すなわちそれは、彼の名前の変更、モーセとの対比、アマレクに対する勝利、王国の中への導きである[9]。それらのテーマはよく知られている。しかし、エイレナイオスに帰されている断片19の中に、人は二つの新しい要素を見出す。それらは、後にオリゲネスによって発展させられる諸テーマである:それらのテーマは、新しい律法の教師イエスというテーマ、モーセによって与えられたマナと、イエスによって提供される遙かに優れた糧との対比というテーマである。エイレナイオスは次のように言う:

次のことは適切だった:すなわち、モーセが民をエジプトから脱出させたこと、ヨシュアが嗣業地の中に民を導いたこと、モーセが律法として解雇通告を受けたが、ヨシュアがみ言葉として、自存するみ言葉の真の形象として、民の教師になったこと、モーセがマナを父祖たちに糧として与えたこと、しかし、ヨシュアは彼らに小麦――命の諸々の初穂、キリストの身体の形象――を分配したこと。なぜなら、()文書は次のように言っているからである:「民が土地の小麦を食べたとき、主のマナは止んだ」と[10]



[1] イスラエル人たちにとって、名前は「その名前を担う者の位格的な本質を含み明示する」ことを忘れてはならない。イエス(救い主)の名前の意味は、以下のようなテキストの中で鋭く知覚されている。たとえば、Mt.1,21:「あなたは彼にイエスという名前を与えなさい。そして彼は、自分の民をその諸々の罪から救うだろう」;Ac.4,12:「実にナザレれのイエスの名前によって、その人間はあなた方の前に全き健康の中で現れる・・・。他の(名前の)中には救いはない。なぜなら、私たちを救うはずの名前は、その名前以外に天の下では人間たちに与えられたことがなかったからである」。ヨシュアの名前の意味も、ユダヤ的伝統の中で意識されなかったことはない。Si.46,2にはこうある:「ヌンの子ヨシュアは戦いにおいて勇者であり、預言の職務においてはモーセの後継者であった。ヨシュアはその名のとおり、主に選ばれた人々の大いなる救いとなった。彼は立ち向かってくる敵に報復し、約束の地をイスラエルに受け継がせた」(新共同訳)

[2] Barn.12,2の中にあるモーセの拡げられた諸々の腕の象徴体系を指摘しなければならないだろう(Ex.17,8-13)。それらの腕は、アマレクに勝利する十字架のしるしを形象する。その象徴体系は、ユスティノスによって新しい諸々の展望の中で再び取り上げられる:すなわち、戦いを指揮するイエス(ヨシュア)の名前の現存が、モーセの拡げられた諸々の腕にその十全な意味を与えた;他方で、モーセは、石の上に座って祈った;ところで、石はキリストの象徴である(Dial.90,5)。それらの二つの象徴体系については、さらにDial.91,3; 112,2; 131,4を見よ。キリスト〓石については、Sacr.Futuri,p.210-211を見よ。モーセの挙げられた諸々の腕の伝統は、Hom.1,2-3に見出される。

[3] Dial.,75,1-2. ユスティノスはこの個所に続けて、天使の名前が預言者たちに与えられたことを付け加えている。ところで、ヨシュアは、「力強く偉大な預言者」だった(ibid.75,3)。このテキストを、旧約の中でのみ言葉の役割に関するユスティノスの許での教えに関係させなければならない:すなわち、太祖たちと預言者たちを通して語ったのはみ言葉である(Dial.49,2; 52,4; 62,1; 77,2-4; 102,4);したがって、み言葉こそ、ヌン(の子)ヨシュアについて、「私の名前は彼の上にある」と言うことによって、イスラエルの民に語ったのである。同じ思想は、主の恐るべき櫃の帰還に関して(1S.6,14)Dial.132,2-3の中にもある。櫃は、「イエスとあだ名された方ど同名の」ヨシュアと名づけられた人間の地所の中に止まる;したがって櫃は、彼の本当の名前が何であるかを暗示するみ言葉の力によって導かれていた、と。

[4] Dial.,113,1-2; 106,3.

[5] Dial.,89,1. 大祭司ヨシュアに関するZa.3,1-5のヴィジョンに与えたユスティノスの解釈を、議論の同じ方向の中で指摘することができる。彼は、そこで、祭司キリストの形象を見ている(Dial.115,4):ヨシュアの汚れた諸々の衣服は、彼がみずから引き受けた諸々の罪である;彼はサタンに頭をもたげ、彼の餌食をもぎ取る(Dial.116)。テルトゥリアヌスは、美しい諸々の衣服に取り替えられる汚れた諸々の衣服の中に、キリストの二つの到来の象徴を見るだろう(Adv.Jud.,14; CSEL,70,327)

[6] Dial.,114,4-5.

[7] キリストによる霊的な割礼のテーマは、既にパウロによって素描され(Rm.2,28; Ph.3,3; Col.2,11)、偽バルナバによって軽く触れられている(8,3-4)。しかし、ユスティノスの独創性は、その割礼をヨシュアの割礼に関係づけたことである。

[8] Appendice III, p.83.

[9] Appendice III, p.84.

[10] Frag.19(PG 7m 1240C);この断片には、約束された土地の小麦(キリストの身体の形象)の典礼的な性格と、律法に同一視されるモーセの解雇が見てとれる(cf.Hom.1,3; 2,1)。教師としてのイエスの象徴体系については、Hom.9,8を参照せよ。

 

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