魂――諸々の戦闘の土地

したがって、ヨシュア記講話のいつもの視野の中では、キリスト教的生活は、ヨルダン川で荘厳に開始される。諸々の戦闘が展開した約束された土地は、ごく自然に、――既に流布していた象徴体系に従って[1]、しかし特に、土地が魂を意味し得る()文書の諸々の個所を意識的に参照して――キリスト教的魂を表していた。約束された土地を魂に内的な王としての約束された土地のその解釈は、み言葉によって確証されていた:「神の国は、あなた方の内部にある[2]」と。

オリゲネスは、真の聖なる戦いは、キリスト者の内部そのものに見出されることを絶えず喚起する:「洗礼の後に私たちを待つ諸々の戦いと諸々の戦闘がどのようなものか、あなたに繰り返し説明する必要がありますか。・・・あなたの周囲でどのような戦闘を行わねばならないか、あなたはご覧になりますか。・・・あなたの諸々の探求をあなた自身にのみ限ってください。実にあなたの中に、為さねばならぬ戦闘があります。あなたの内部に、破壊すべき邪悪の陣地があります。あなたの敵はあなたの心の奥底から出陣します」(Hom.5,2)と。イスラエルがその指導者ヨシュアに従って土地を完全に征服することを妨げていたエブス人たち、カナン人たち、フェリシテ人たちは、いったい何だったのか。それらは、常に下心があり常に再生する諸々の誘惑である。ヨシュアの時代のイスラエルと同様に、常にフェリシテ人たちを追い出し、レファイム人たちを削除しなければならず(Hom.22,4)、霊的な根絶を継続しけなければならなかった(Hom.8,7;15,5)。しかしながら、オリゲネスは自分の経験から、こちら側のキリスト者は、熱望する休息を決して見出さないと証言する。()文書の言葉によれば、エブス人たちはいつも、ユダの子らとともにエルサレムに住むだろう――代の終わりまで ユダの子らは、彼らを拒むことも追放することもできなかった。カナン人たちは、エフライムの中に留まっていた。毒麦は魂の中に、そして教会の中に留まるだろう(Hom.21)

しかしながら、勇気をもって開墾し、切り倒し、抜き取り、植えるべきだった:「もしもあなたが偉大な民であり、あなたが勇気を持っていれば、森はあなたのものです。そしてあなたは、それを開拓するでしょう」(Hom.22,5)。魂の土地の中でのそのような浄化の仕事は、キリスト者と神のみ言葉――魂の中で諸々の悪霊的な建物を破壊し、引き抜き、植え、ご自分の住まいを建てる神のみ言葉――との業である。ユダの諸々の町は再建されるだろう。そして、人はそこに住むだろう(Hom.13,3-4)。平和のヴィジョンとしてのエルサレムは再建されるだろう(Hom.21,2)。その仕事が成し遂げられるとき、心の平和が獲得されるとき、人は次のように言うことができるだろう:「あなた自身の肉であるこの土地について、土地は戦いから安息した」(Hom.19,1)と。

安息の段階――それは完成の段階である――は、これらの講話の中ではほとんど述べられていない。第21講話がその理由を十分に示しているだろう。オリゲネスは、安息を常に追求すべき目標として語っている[3]。彼は――たとえば民数記講話26,7のように――完全な魂に同一視される約束された土地の解釈を余談として再び取り上げることさえしない[4]。彼は次のように述べる:完全者たちと優れた者たちの嗣業地は、平和と贖いと知恵としての主である、と(Hom.17,3)。しかし、大抵の場合、彼は、天的な土地と諸々の天の嗣業地の中に、約束された土地によって形象された終末論的な現実を見る。



[1] アレクサンドリアのクレメンスにとって、弟子の魂は、み言葉が種を蒔き埋め込んだ土地に似ている(I Strom.,I,1,3; GCS,15,3):主は人間の中にある土地の耕作者である(I Strom.,VII,37,2; GCS.15,24)。土地のキリスト論的テーマの反響は、『エレミア記講話』18,5にも見出される:「集会の中に入って、諸々の実を結ばない人は、教会の神秘であるキリスト、善き土地を無為にする人です」。

[2] Lc.17,21; Hom.13,1.

[3] Hom.22,2でオリゲネスは、完成を、霊的生活の第三段階にしている。

[4] 「イスラエルの子ら、すなわち、教会の民の間では、ある人たちは霊的である。そして、彼らはヨルダン川のこちら側で、乳と蜜の流れる土地を受け継ぐ。彼らが知恵と知識の諸々の喜悦を受け取ることを、あなたは理解してください。彼らの土地は、神的な知性の諸々の水に満ちた神的な川によって囲まれ潤されています」(民数記講話SC.p.509)。それは、オリゲネスにおいては滅多に見られない解釈である。ヨルダン川のこちら側の部族とあちら側の部族は、オリゲネスの場合、イスラエルと教会という二つの民の象徴として現れている。ここでオリゲネスは、ヨルダン川を過ぎ越した人々の中に、信仰者たちの中の霊的な人たちを見ている。

 

次へ