諸々の天の土地

実際、キリスト者は、みずからの諸々の視線を、上方のエルサレムを含む土地の方に向けるべきである。それこそ、キリスト者の希望の対象である。なぜユダヤ人たちは、廃墟と化したエルサレムと捨てられた祭壇を前にして悲嘆にくれ、嘆きの声を上げるのか。彼らは諸々の目を上げて、自分たちの嗣業地を諸々の天の中に探すべきである(Hom.17,1)

我々は、諸々の天の土地に関するオリゲネスの諸々の考え方を既に取り上げた。惑星的世界――ヘブライ的な宇宙論の言葉では天蓋――のあちら側に、彼は、真の天と真の土地を見ていた。それらをモデルにして、こちら側の天と地が形成された。その上方の土地は、確かに約束された土地であり、柔和な人たちが嗣業として受け取る生ける者たちの土地、乳と蜜が流れる善き土地である[1]。魂たちは段階的に、(聖文)書の諸々の天に対応する天的な諸領域を過ぎ越して、その土地に到達する(De Princ.,II,11,6)。聖なる者たちは、より迅速に前進し、諸事物の理拠と原因をますますよく理解する。彼らのために、この上方の土地から諸々の天への道――そこに彼らの名前が登記されている――が開けている[2]

諸原理についてから取られたこの図式は、オリゲネスの多様な与件――それらは容易に統一できない――を余りにも単純化している。しかしそれらの考え方は、ヨシュア記講話の幾つかの要点を容易に理解することを助けてくれる。たとえば、天的な諸々の住居の多様性の教えは、Gabaonitesのエピソード――彼らは、イスラエル人たちを欺いた故に断罪され、未来の世界の中で「水の運び手と木の切り手」になるとされた――を明らかにしてくれる:彼らは劣った位階に位置づけられ、彼らの兄弟たちの従者になるだろう(Hom.10)Hom.Nb.28,2-3では、オリゲネスは、天的な土地それ自体の中に実在する諸々の滞在地の諸々の大きな違いを強調していた。さらにオリゲネスは――De Principiisの動線に沿って――Hom.Nb.21,1の次の展開を思い出すことができていた。すなわち彼は、端的に次のように明言していた:天的な土地は、レビ人たちによって形象される完全者たちと聖者たちとにとって、通過地にすぎなかった;彼らは、そこを越えて、天の最も高い諸地域を昇り、神ご自身の許を目指す。(彼らに比べて)あまり進歩しなかった者たちは、土地を嗣業地として受け取っていた;彼らは、偉大で幸福であろうが、神を見るであろう者たちはもっと幸福だろう。ところで、ヨシュア記の中で、レビ人たちが彼らの兄弟たちとともに土地の上で住むにちがいないと言われていた。オリゲネスはそこから、神的な計画の経綸の中での相互扶助という賞賛すべき法律を引き出していた(Hom.17,3)。しかし、第25講話の終わりでは、彼は天的なヒエラルキー(序列)――その多様な諸段階は、諸々の天の土地のあちら側に位置づけられる――に暗々裏に戻っているように見える。

オリゲネスおける終末の教えの不正確さに参与する上記の諸側面を指摘しなければならなかった。いずれにせよ、約束された土地は、見神に至る通り道だった。また、オリゲネスは絶えず、天的な諸神秘の素描――それらは、ヨシュアによる(嗣業地の)分割の中に、あるいは、荒れ野の天幕の周囲での諸部族の神秘的な配分の中に予型されていた素描――を褒め称える[3]。それらは言語を絶した諸神秘で、パウロとテモテだけが知ることができたものであり(Hom.23,4)、聖者たちがこの世界からの脱出の後で初めて全き光の内にそれらを見るであろう。「ああ、もしも人が聖なる善き土地、生ける者たちの土地にまで昇ることができたなら」、その人はそれらの分割の意味を把握するだろう(Hom.20,1)。それらの分割は、「天的な分割の模倣と影」(Hom.17,1)だった。その人は、聖なる都、天的なエルサレム、「そして、ベツレヘムとヘブロンの位置、人が私たちにその籤引きを描写するところのすべての町の位置」を見るだろう(Hom.23,4)。したがって、それらすべての配分は、先在する分割の影と像だった。しかしオリゲネスは、それをさらに、来るべき分割の素描にし、死者たちの復活の秩序の素描にする(Hom.25,4;cf.Hom.Nb.1,3)。諸々の魂は、そこで、彼らの霊的な諸部族に従って配分されるだろう[4]。しかしその配分は、魂の自由な選択の結果である。なぜなら魂は、カレブの取り分を受け取るように努力し(Hom.18,3)Gabaonitesの取り分を過ぎ越すように努力しなければならないからである(Hom.10,3)



[1] Cf.Hom.Os.36,2,4; 5,4. 現世の天と地は、「天蓋」と「乾いた所」という名前を持つべきである――真の天と真の地と区別するために。Cf.De Princ.,II,3,6; Hom.1,2; Hom.Nb.26,5.

[2] Cf.Hom.Ps.36,2,4; 5,4. こちら側の「天と地」は、真の天と真の土地と区別されるために、「天蓋」と「乾いた土地」という名前を持たねばならなかった(De Princ.II,3,6; Hom.Gn.1,2; Hom.Nb.26,5)

[3] Hom.23,4;2-4; cf.Hom.Nb.3,3; 4,1-2.

[4] 実際、オリゲネスの許には、魂の霊的な諸々の場所の教えが実在する:Hom.Jr.2,1(latin)によると、魂はその霊的な状態に応じて、バビロニアに、あるいはエジプトに、あるいはエルサレムに近い諸々の領域の中にあり得る。しかし、魂が諸々の罪に圧倒されているなら、それはバビロニアに住む。もしも魂が神の栄光を歌うなら、それはエルサレムに住む。しかしそれは、ガドやダンやナフタリの諸々の領域の中にも住み得る・・・(GCS,33,290-291)

 

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