魂の霊的な場と天的な場の照応

それゆえ、魂の霊的な場所と、天的な土地の中で魂に割り当てられるであろう場所との間には、或る対応が存在する。ところでその対応は、魂という土地と天的な土地にの両方に同一視される約束された土地についてのオリゲネスの二重の考え方に完全に符合していた。そこから、非常に興味深い理論――その理論において彼は、魂の内的な宇宙と天的な宇宙との間の深淵な類比に基づいている――が帰結する。魂から引き抜かれ滅ぼされた一切の悪徳――したがって退位させられた一切の悪霊――に対して、天的な王国の外への悪霊の追放がおのずから対応する(Hom.1,6; 13,1-2)。キリスト者は、(悪霊が追放されて)開いた場所を奪い取る。そして、キリスト者が占領者たちを追い出すであろうそれらの天的な領域を、キリスト者自身がみずからの死後に所有するだろう。

既に民数記講話の中でオリゲネスは、魂の霊的な行程と未来的生活の中でのその(魂の)行程との間の類比を発展させていた[1]。歴史は、霊的であるとともに天的な二重的平面の上で展開していた。それらの見解の幾つかは、ヨシュア記講話の中に保持されている:すなわち、キリスト教的魂は、絶えず諸々の高みに立つべきであって、諸々の谷の諸々の窪地の中に立つべきでない(Hom.1,5; 26,1)。魂は、諸々の高みに昇ることによって、上方の諸々の事柄、諸々の崇高な領域(Hom.2,2)――ルシフェル自身が諸々の天の中で占有していた諸々の場所――を嗣業地として受け取る(Hom1,6)。その場合、もはや旅は問題でなく、征服が問題である。キリスト者の内的な王国が平定され征服されるとき、驚くべき相互性によって、今度は、あちら側の諸々の王国が服従させられ平定される。自分の魂に対するキリスト者の働きかけは、諸々の天の中にその対応物を持っている。

諸々の天の約束された土地に到達するには、したがって、魂の約束された土地という媒介的な土地の制服が必要である。



[1] Hom.Nb.12,3; 26,4; 27.

 

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