終末論的な土地

教父的展開の最初の動線は、預言者たちの諸々のヴィジョンと黙示的な諸々の希望との連続性の内に位置している。前キリスト教的なユダヤ的環境やキリスト教と同時代的なユダヤ的環境の中に身を投じる人にとっては、(約束された)土地への民の熱烈な愛着以上に目を見張るものはない。(約束された)土地への祭儀の中に、一切のユダヤ的伝統と民族の一切の過去が関わっていた。パレスチナのこの土地は、アブラハムに約束された土地だった:「私はこの土地を、あなたとあなたの子孫に永遠に与えだろう」と。その土地の征服は、ユダヤ的な民の古代史、ダビデとソロモンの諸々の王国の歴史に溶け込んでいた。その土地にあるシオンの丘の上に、ヤーウェの聖なる神殿が建てられた。追放の諸々の試練は、民の意識の中で土地への愛着を増幅させた:「エルサレムよ、もしも私があなたを忘れるなら、私の右手は萎えた方がいい。私の舌は私の上顎に付けばよい・・・」(Ps.137,5-6)。根無し草になった民は、預言者たちに教えられて、イスラエルの土地の中に、自らの宗教的過去の特権的な場所を見るだけでなく、諸々の未来的な回復とメシア的な王国との劇場を見ることを学んだ。

十二部族の間で新たに分与される土地は、歓喜の土地になり(Ml.3.12)、爾後、諸々の戦いがない土地になるだろう。そこでは、「狼が子羊と共に住み、豹が子山羊と共に寝るだろう」(Is.11,6)と。各人は、葡萄の木と無花果の木の下に留まるだろう(Mi.4,4)。そして彼らは、その土地からもはや決して引き離されないだろう(Am.9,13)。聖性の土地で、ヤーウェは、永遠の契約を更新し(Jr.33,15-26)、みずから再びそこに住むだろう(Za.8,3)。そして、義人たちは、その土地を永久に所有するだろう(Ps.37,29)。さらに、エルサレムは全地の宗教的中心になり、諸国民は大挙してそこに向かうだろう。諸々の展望は、イザヤ書の最後の諸章の中で膨らみ、新しい諸々の天と新しい土地にまで拡げられた。

したがってユダヤの民は、心の中に不屈の希望を持っていた。民の土地は、異国の支配から解放されるだろう。そして、ユダヤ教のすべての離散した人たちは、聖性の中で更新された土地の上に集まるだろう。彼ら、イスラエルの子らは、「神の栄光を喜び」つつ戻ってくるだろう(Bar.4,37)。大衆的な想像は、疑いもなく、途方もなく肥沃な土地の中での驚くべき幸福の時代を想像するだろう[1]。時の終わりのパレスチナについての後の諸々の思弁を一つに還元することは難しい。ヨハネの黙示録は、新しいエルサレム――栄光に溢れた新しいエルサレム、神の許に降りた新しいエルサレム――を提示するとき、その都を神と子羊とに適応しつつ、ユダヤ教の終末論的な諸々の展望の幾つかを再び取り込んでいる[2]

キリスト教はこのようにごく自然に、ユダヤ人を支えてきた大いなる希望の潮流の中に挿入されていた。キリスト教はいわば、ユダヤ人の湧き上がる血潮を捉えていた。ところで、ユダヤ的なテーマを取り込む最も簡単な方法は、再臨したキリストが、パレスチナ変容され聖化された土地の上で、選ばれた者たちと共に終わりなき幸福を生きることを示すことだった。千年王国的な諸々の教説に最も近いキリスト教的著作家たちが、そのような道の中に乗り入れた:ユスティノスとエイレナイオスがそうである。

ユスティノスの場合、約束された土地は、超越的なものでは決してなく、こう言ってよければ時間と空間の中で、歴史的なパレスチナと連続したものとして現れている。ユスティノスは、新しいエルサレムの中の聖者たちの地的王国を信じていた(Dial.80,81.85)。聖なる土地を終わりなく永遠に嗣業するだろう者たちは、信仰によるアブラハムの子らである。彼らは、この土地の上でキリストと一つに結ばれ、永遠で不滅の諸々の善を分かち合うだろう。

類似の諸々の展望は、聖エイレナイオスの許にも見出される。彼の使徒的証明(Demonstratio Apostolica)によれば、ヘブライ人たちの約束された土地は、神の国の形象である(Dem.Apost.46)。ところで、5異端反駁(Adversus Haereses)の最後の諸章に基づくなら、柔和な者たちに約束された土地は、義人たちが最初の復活の後に君臨する土地であり、千年の王国の土地である(V 32-35)。エイレナイオスは、その土地を、預言者たちの壮大な諸々のヴィジョンに依拠して描いている(V 35)。そして、「義人たちは、主のヴィジョンの中で成長し、主を通して父なる神の栄光を受けることに慣れるだろう」(Adv.Haer.V, 35,1)と付言する。彼らは、天のエルサレムが来るまでに、そうすることに慣れるだろう。「この最初のエルサレムは、その(天のエルサレムの)像である」(Adv.Haer.V, 35,1)。このようにして、エイレナイオスにとって、約束された土地の中での終末論的生活は、新しい永遠的なエルサレムの所有へと義人たちを導くだろう。

ところで、時の終わりに更新された地上的パレスチナの概念は、オリゲネスの思想の対極にある。彼にとって、神によって約束された土地――乳と蜜が流れる善き広大な聖なる土地――を、ユダヤと同一視することは真実にナンセンスである。なぜなら、ユダヤは、始めから呪われた土地の一部だからである(C.Celse, VII, 28-29)。オリゲネスは、創造の物語の中で「土地」と「乾いた(不毛の)土地」の間に立てた区別に従って、次のように言明する:アダムが置かれた地上的楽園と同じように、主によって柔和な者たちに約束された土地は、「土地」であって、「乾いた(不毛の)土地」ではない(Hom.Nb.26,5)[3]。死後に諸々の天の国の中で到達される土地は、それは先在する天的な土地であり、土地の楽園は、その雛形であり影である。



[1] Cf.II Bar.29,5-8; Or.Sib.III 743-749. Voir Bonsrven, Le judaïsme palestinien au temps de Jésus-Chrsit, Paris, 1934, t.I, p.432-435.

[2] Ap.21. cf.Hen.,90,29; IV Esd.10,25-28; II Bar.32,2.

[3] 『民数記講話』のこのテキストの中でオリゲネスは、アダムが堕落以前にいた楽園は、「土地」の上にあって、「乾いた土地」の上にはなかったと言明している。しかし、『諸原理について』II,11,6の中では、楽園は、『土地の上に位置づけられているが、その土地は、聖人たちの諸々の魂が、天的な諸領域に昇る前に通過する場所になっている。このことは、オリゲネスの諸見解の一貫性の問題を提起する――彼が楽園と約束された土地とを比較する限り。実際、約束された土地は、天的な諸領域の上に位置しているように見える。その問題の解決はおそらく、存在の様々な次元の諸々の解釈をオリゲネスの側に認めることだろう。

 

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