完成の土地、魂の土地

天的な土地は、その様々な表象の中で、死後に到達すべき一つの目標であり続けるだろう。そしてそれは、人間にとっていわば外的に見える目標であった。ところで、オリゲネス以前に、約束された土地のテーマがより内的でより親密な次元へと――魂の霊的な行程の次元、すなわち、約束された土地によって象徴された完成の域に向かう魂の神秘的な旅路の次元へと――転位されていた。その教えは――我々はその数多くの反響をオリゲネスの内に見出す――既にユダヤ的なものになっている。なぜならそれは、フィロンの許で表象されているからである。

実際、フィロンの許で、地的パレスチナによって象徴される約束された土地は、可知的な諸イデアに同一視されるよりは、徳、知恵、完成に同一視されている。イスラエル、すなわち,神を見る魂――その目は純粋で鋭い(Confus.92)――は、一般に身体と諸情念として解釈されるエジプト(Agric.64; Confus.88)を脱出すべきである――徳の諸都市へ移住するために(Migr.17-18);「その実りが、神の知恵の確実で揺るぎない把握である」(Her.314)ところの土地へと移住するために。この知恵の旅路に身を投ずることによって、魂は、野生の実の代わりに涵養された実を結び始める(Plant.98)。この豊饒の土地の中で――その中で、知恵のすべての産物が発芽する(Quaest.Gn.III,1)――覚知の実りは、観相的生活であり、混じり気のない喜び、精神の照明である(Fug.176)。知恵のこの土地は、完成を渇望する魂にとって究極的な目標を表す。魂は熱望のすべてを挙げて、神のみが彼に与えることのできるこの徳の国へ向かう(Somn.II,75)。多くの魂は、この土地の諸々の善の一部だけを所有することに満足しなければならないだろう。「探索者――徳の幹を引き抜き、残らず持って行こうと試みるが、それができず、自分たちが運ぶことのできる一本の枝と一つの房――全体の標本であり一部――を取ることに甘んずる探索者たち――を賞賛し」なければならない(Mut.224)。オリゲネスは、フィロンから着想を得て、彼と同様に、約束された土地を、知識と知恵と徳と完成との象徴にするだろう。しかし、我々が後に見るように、オリゲネスは、新約聖書の諸々の教えに深く浸されているため、諸々の天の王国やキリストの位格そのものに直ちに立ち返る。

他方フィロンは、ヘブライ人たちが約束された土地を所有していることを決して示さない。それは単に、彼の律法の注解がヨシュア記に及んでいないからではない。土地の象徴体系を破壊することなしに、どのようにして彼は、完成の土地の中での諸々の戦いを比喩的に解釈することができただろうか。フィロンの許で、魂の神秘的な旅路は、エジプトからパレスチナに向かうが、パレスチナは到達点である[1]。それに対し、オリゲネスにとって、ヨシュア記講話の特別にキリスト教的な展望は、約束された土地をキリストによって既に恵与された賜物として考察するように彼を向かわせる。もちろんオリゲネスは、フィロンの諸々の転位を知っており、利用する。しかし、我々の諸講話の中ではフィロンの「王道」に対して強調点の変位が見られるだろう。

しかしながら、たとえフィロンが、約束された土地におけるヘブライ人たちの英雄的行為を決して直視しなかったとしても、彼は、開墾し灌水し播種しなければならぬ土地――数々の実りをもたらすこともできれば、不毛にもなり得る土地――に魂をなぞらえる在り来たりの比喩を知っており、また、展開する。彼は、この「魂の耕作」に、農業についての一節すべてを割いている(Agr.8-25)。魂が知恵の諸々の波によって灌水すると、魂は諸々の植物を芽生えさえ、多くの実りをもたらす(Poster.125.171)。そのような魂と土地の等価は、約束された土地の象徴体系を魂に適用するようにフィロンを仕向けたに違いない。彼は、人が彼の許で集めることができる珍しく終末論的な諸々の箇所の一つの中でそれを行っている。諸々の軍事行動について(De Proemiis)の末尾で、美しいテキストが、預言者たちにならって、数多くの破壊から立ち上がるであろうる聖地の更新を褒め称えている:「見捨てられていた女が、多くの美しい子どもたちを産むだろう」と。預言者のこの言葉はまた、フィロンによると、魂――神的な種を受け入れると、諸々の徳を生み始める魂――に関するものとしても、比喩的に理解することができる(Proem.158-161)。さらに、フィロンがイサクを完全者、約束された土地の先住民――完成の土地に本性的に住む先住民――とするとき(Som.I,160)、彼は、約束された土地の中で神の諸々の好意で喉を潤す完全者たちの範疇を描こうとしている。

約束された土地のテーマの魂への転位は、ヨシュア記講話にける中心的な課題である。オリゲネス以前には、魂の諸々の熱望の対象である土地のモチーフは、暗示の形で、ソロモンの唱歌の中に、神的な諸々の恵みの象徴である乳と蜜に関して見出される:「あなたは、あなたの葡萄酒を私たちに振り掛けてください。私たちのために乳と蜜を流すあなたの豊かな諸々の泉を開いてください」(Odes,4,10-11)。乳と蜜は、当時、魂という土地に中に降る神の諸々の恵みを表すことができた。そのような象徴体系は、かなり広まっていたに違いない。なぜなら、ヒッポリュトスによると、Naasséniansは、グノーシス的完全者たちに、「乳と蜜が流れる美しく善き土地」に関する言葉を適応しているからである(Elenchos,V,8,29-30;GCS,26,94)

我々は、文字通りにキリスト教的な諸発展の中で、キリスト教的魂と約束された土地との同一視を見出すだろう。乳と蜜のテーマは、キリスト教文学によって広く利用されるだろう。



[1] Pour les épisodes philonienes de la marche au désert, voir Sacr.Futuri, p.182-188, mais surtout E.R.Goodenough, By Light Light, New-Haven, 1935, p.204-222.

 

次へ