第一講話[1]

 神的文書の一つひとつの言葉は、諸々の種の或るものに似ていると、私には見えます。その或る種の本性は次のようなものです:すなわちそれが土地の中に投げられ、穂の中や、その類の他の任意の形姿の中へと再生したとき、数倍に拡散されます――それも、熟練した農夫が諸々の種に多くの労力を費やすほど、あるいは、より肥沃な土地のために尽力すればするほど増殖します。ですから、耕作の熱意によって、僅かな「種、たとえば、すべての諸々の(種の)中でもっとも小さな辛子種は、すべての諸々の野菜よりも大きくなり、木となって、遂には天の諸々の飛翔物が来て、その諸々の枝の中に住むようになります[2]」。同じように、いま私たちに諸々の神的な巻物から朗読されたこの言葉も、熟練した勤勉な耕作者が来るなら、最初の触知では僅かで小さいように見られても、霊的な技術によって耕作され扱われ始めると、木の中へと、諸々の枝の中へと成長し、茂みの中へと拡散されます;こうして、「この世の討論者たちと雄弁家たち[3]」が来ることができます;彼らは、天の鳥たちのように、諸々の軽やかな翼によって、厳密には諸々の言葉の展示によって、至高で高尚な諸々の事柄を追求します;そして彼らは、諸々の理拠によって捕らわれて、それらの諸々の枝の中に住むことを望みます;それらの(枝の)中には語ることの優美さはなく、生きることの理拠があります。

ですから私たちも、私たちに朗読された諸々の事柄から何を作りましょうか。もしも私に主が、霊的耕作の指導を与えることを嘉として下さいますなら、もしも彼が農地の耕作の技能を与えて下さるなら、朗読された諸々の事柄の内の一つの言葉が遠くそして広く拡散され得ることでしょう――ただし聞き手の方々の能力が許すならば――;その程度たるや、私たちが(すべてを)説明するのに一日で十分でしょう。しかしながら私たちは、私たちの諸々の力に応じて検討することを試みましょう――たとえありとあらゆることを説明することが私たち可能でもなく、すべての諸々の事柄を聞くことがあなた方に可能でないとしても。実にそれらの諸々の事柄の知識が私たちの諸々の力を超えているということを認めることは、僅少な熟練に由来するとは、私は思っていません。ですから私たちは、先ず、出エジプトの諸々の始めの中で朗読が何を含んでいるかを見ましょう;そして、聞き手の方々の建徳に十分な限りでできるだけ簡潔に探求しましょう――ただし私たちに神の言葉が臨み、()ご自身が私たちの言葉の導き手になることを嘉として下さるように、あなた方があなた方の諸々の祈りに助けて下さるならば。



[1] 以下は、読みやすさを無視した文字通りの直訳である。意訳を望む者は、原語に当たるべきである。

[2] Cf.Mt.13,31s.

[3] Cf.1Co.1,20.

 

次へ