(聖文書は)言っています:「これらが、イスラエルの子ら――その父ヤコブと一緒にエジプトの中に歩み入り、それぞれが各自の全家と共に入った――の諸々の名前である:ルベン、シメオン、レビ、ユダ[1]」、そして、その他の太祖たち。しかし、「ヨセフは、エジプトの中にいた。他方、ヤコブに由来するすべての魂たちは、七十五であった[2]」と(聖文書は)言っています。

預言者によって言われる次のことも、その神秘に似ていると私は思います――もしも人が注意できるなら:すなわち、「私の民はエジプトの中に降りた――そこに居住するために――そして、アッシリア人たちの中に連れ去られた[3]」と。ですからもしも人が、それら(の諸神秘)を互いに突き合わせることができるなら、そして私たちの先人たちによって、あるいは、同時代人たちによって、また、私たちによってしばしば討論された諸々の事柄から、エジプト――神の民が居住するためというより、滞在するためにその中に降りたところのエジプト――が何であるを理解できるなら、さらに、力を行使して彼らを連れ去ったアッシリア人たちが誰であるを理解できるなら、太祖たちの数と序列が何であるか、また、彼らの諸々の家と家族が何を示しているかに必然的に注意するでしょう。彼らの諸々の家と家屋は、その父ヤコブと共にエジプトの中に歩み入ったと言われています。実際、(聖文書は)言っています:「ルベンは、彼の全家と共に、そしてレビもその全家とともに、そればかりか他のすべての者たちも[4]」と。しかし、「ヨセフはエジプトの中にいました[5]」。そして彼は、エジプトから妻も受け取りました。そして彼は、そこに(埋葬して)置かれたにもかかわらず、太祖たちの数の中に入れられています。

しかしもしも誰かが、霊的にそれらを分析し、使徒の理解に従うことができるなら――彼は、イスラエルを区別し分離して、「肉によるイスラエル[6]」があると言っています:疑いもなく、霊による(イスラエル)があること示すかのように――、そればかりか、もしも誰かが、まさにこのことを示す主の言葉をより入念に考察することができるなら――主はある人について、「見よ、真のイスラエル人を。彼の内に策略はない」と言っています――、また、ある人たちが真のイスラエル人たちであり、ある人たちが疑いもなく真の(イスラエル人たち)でないことが理解されるようにするなら、おそらくその人は、「諸々の霊的な事柄を諸々の例的な事柄に突き合わせ」、諸々の新しい事柄に諸々の古い事柄を、諸々の古い事柄に諸々の新しい事柄を突き合わせることによって、エジプトのと、太祖たちのその中への下降との神秘を注視することができるできるでしょう。

そればかりかその人は、諸々の部族の諸々の違いをも観想するでしょう。たとえば彼は、次のことを推察するでしょう:レビの部族から主の祭司たちと奉仕者たちが選ばれるのですから、その部族の中でどんな際立ったものが見られたか;さらにユダの部族から王たちと君主たちが取られるのですから、その部族の中にどんな顕著なものを主が感知したか、しかもその部族から更に、肉によれば私たちの救い主なる主が生まれるのですから[7]、すべてのものに優るどんな偉大なものを(その部族の中に主が感知したのか)。すなわち、私は知りませんが(おそらく)、そのような諸々の特権は、彼らが自分たちの(諸部族の)名前や起源を引いている始祖たちの諸々の功績に帰されるべきかもしれません:すなわち、ユダ人自身やレビ自身や部族に名前を与えた人たちのそれぞれに(帰されるべきかもしれません)。実際、ヨハネが黙示録の中で、キリストを信じた民について書いている事柄が、この意図の中で私を動かしています。すなわち彼は、次のことを言っています:「ルベンの部族から一万二千人」の男たちと、「シメオンの部族から一万二千人」、同様にまた、それぞれの諸部族から一万二千人[8];彼らは同時に全員で「十四万四千人である[9]」;彼らは、婦人たちと共にみずからを汚さず、童貞者たちのまま留まったと(ヨハネは)言っています。ともかくそのことが、ユダヤ人たちのあれらの諸部族、シメオン、レビに、そして、ヤコブから類を引くその他の(諸部族)に呼び戻され得る(とする)ことは、月並みで不適切な推測ではあり得ません。ですからそれらの父祖たちに、童貞者たちのその数は帰されるべきでしょう――その数は、とても平等で、とても完全無欠で、とても均等でもありますから、何人も他の人より優ってあるいは劣って数えられません――が、私としては敢えて過度に探求して前進しません。しかし私は、ここまでのところは、ほとんど何らかの危うさを伴って進入しています。しかしながら使徒は、次のことを言うとき、より高く凝視できる人たちに或る諸々の示唆を与えています:「それ故、私は私の諸々の膝を、私たちの主イエス・キリストの父に向けて曲げます。彼から、諸々の天において、そして、土地において、一切の父性が名づけられます[10]」と。土地的な諸々の父性に関しては、理解は難しく見られません。すなわち、諸々の部族や諸々の家の父祖たち――子孫の継続はそれらの父祖たちに帰されます――は、ひとまとめに「一切の父性」と呼ばれます。しかし、彼が言う天において、どのような仕方で、ないしは、どのような性質で、父祖たちがいるのか、あるいは、どのような子孫たちに応じて天的な父性が名づけられるのかを知ることは、「天の天は彼のものであり、彼は人間たちの子らに土地を与えた[11](言われる)方のみに属しています。



[1] Ex.1,1-4.

[2] Ex.1,5.

[3] Is.52,4.

[4] Ex.1,1-2.

[5] Ex.1,5.

[6] 1Co.10,18.

[7] Cf.He.7,14.

[8] Cf.Ap.7,5-8.

[9] Ap.7,4.

[10] Ep.3,14s.

[11] Ps.115,16.

 

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