「しかし、エジプトの中で、ヨセフを知らなかった王が立った。そして彼は、自分の民に言った:『見よ、イスラエルの子らの種族は、大いに多数である。そして(その種族は)我々の上で強大である』[1]」と(聖文書は)言っています。

すべての諸々の事柄の中で第一に私が探求することを望むのは、ヨセフを知っているエジプトにおける王は誰であるか、そして、(彼を)知らないのは誰であるかということです。実際、ヨセフを知っていた者が君臨している間は、イスラエルの子らが抑圧されていることは述べられていませんし、「泥と煉瓦の中で」疲弊させられているとも(述べられて)いませんし、子たちの中で男の子らは殺害され、女の子らは生かされたとも(述べられて)いません[2]。しかし、ヨセフを知らなかった者が立ち、彼が君臨し始めたとき、その時、それらのすべてことが行われたと述べられています。ですから、その王が誰であるかを、私たちは見てみましょう。

もしも主が私たちを支配し、そして、私たちの精神の感知が主によって照らされ、いつもキリストの記憶を保持しており、パウロがテモテに宛てて書いていること――「あなたは、キリスト・イエスが死者たちの中から復活したことを想起しなさい[3]」ということ――を行うなら、それがエジプト中で、すなわち、私たちの肉の中でそれら(の言葉)を想起している限り、私たちの精神は、王国を正義をもって保持し、そして、イスラエルの子ら――私たちは上で、理性的な諸々の感知ないしは魂の諸々の徳であると言ったイスラエル子ら――を「泥と煉瓦の中で」疲弊させませんし、それらを土地的な諸々の配慮や諸々の不安で消耗させません。しかしもしも私たちの精神がそれらの記憶を失って、神から離反し、キリストを知らなくなったなら、その時、神に敵対する肉の知恵が王国に入り込み、身体的な諸々の欲望という自分の民に話しかけ、諸々の悪徳の指導者たいを会議に招集することによって、イスラエルに対して協議が開始されます:どのようにして彼らが圧迫されるべきか、どのようにして彼らが抑圧されるべきか――「泥と諸々の煉瓦」によって打ちのめされるために、彼らが男(の子)らを差し出し、女(の子)ら養うために、そして彼らが、エジプトの諸々の町を、そして、「要塞化された諸々の町」を建設するために[4]

それらの事柄は、私たちにとって歴史のために書かれたのではありませんし、諸々の神的な本がエジプト人たちの諸々の行いを物語ると考えられるべきでありません。むしろ(それらの中に)書かれている諸々の事柄は、「私たちの教えと教訓のために書かれました:それは、これらのことを聞くあなた、おそらく洗礼の恵みを既に獲得したあなた、そして、イスラエルの子らの間に数え入れられ、自分の中に神を王として受け入れたあなた、しあしその後で逸脱し、代の諸々の業を行い、土地の諸々の行いと泥的な諸々の奉仕を果たすことを望むあなたは、「あなたの中に、ヨセフを知らない別の王[5]」、すなわち、エジプトの王が立ったことを知り認識すべきです。そして彼は、あなたを自分の諸々の業へと追い立て、自分のために煉瓦と泥を加工することをあなた強制します。彼は、(あなたの上に)主人たちと強制者たちを置いて、諸々の鞭打ちと諸々の殴打によって諸々の土地的な業へあなたを追い立て、あなたが彼のために諸々の町を建設するようにさせます[6]。彼は、あなたをして代を通して駆け回らせ、海と土地との諸々の要素を欲望に応じて混乱させます。彼は、次のようなエジプトの王です――あなたをして諸々の騒ぎで公共広場を踏み荒らさせ、土地のちっぽけな芝地の故に諸々の喧嘩によって隣人たちを疲れさせ、言うまでもなく貞潔に謀をし、無邪気を欺き、家の諸々の恥辱を、屋外では諸々の残忍を、良心の内部では諸々の卑劣を(あなたをして)犯させます。ですからあなたの諸々の行いがそのようなものであることをあなたが見たなら、あなたは自分がエジプトの王のために軍務に就いていること――それはすなわち、このようの霊によって動かされていること――を知るべきです。

しかしもしも、そのことに関して更にもっと深い何事かが感知されるべきであるとすれば、「ヨセフを知らないその王[7]」は、「神はいないと、自分の心の中で言ったあの愚か者[8]」すなわち悪魔であると見られ得ます。彼は、自分の民すなわち離反したみ使いたちに語り、次のことを言います:「見よ、イスラエルの子らの種族は――彼らに関して、精神によって神を見ることのできる人たち――大なる多数であり、私たちによりも強力である。それ故あなた方は来なさい。私たちは彼らを抑圧して、彼らがもしかして増えないように、そして、我々に戦いが起こったとき、彼らまでも敵対者たちに同意して、我々を打ち破って、我々の土地から脱出しないようにしよう[9]」と。

しかし悪魔は、どこからこのことを感知するのか。イスラエルは大きな民であり、自分たちより強いということを、彼はどこから知解するのか――彼がしばしば(イスラエルと)衝突し、諸々の戦いを持ち、しばしば圧倒されなかったとすれば。実際、彼は、ヤコブ自身が戦い、み使いの助けによって敵対者を掌握し、神と共に強力になったことを知っています[10]。彼は、他の聖人たちとの諸々の戦いを感知しており、諸々の霊的な戦いを耐えたことを、私は疑いません。それで彼は、「イスラエルの子らの種族は甚だしく大きくなり、我々の上で強大である[11]」と言います。そればかりか彼が恐れていることも:すなわち、彼らに戦いが生じると、彼らが彼の諸々の敵対者たちに同意すること、そして、彼らが勝ったなら、自分の土地から退去するという恐れも、次のことのように私には見えます:すなわち、キリストの到来に関して聖なる太祖たちや預言者たちによってしばしば()示されていた諸々の事柄から、戦いが自分に迫っていることを予感し、知っているということです。彼は、「自分の諸々の支配権と諸々の権能を剥ぎ取り、自信満々に彼らに勝利し、(彼らを)ご自分の十字架の木の中で磔る方[12]」が来るだろいうということを感知しています。ですから彼は、自分の一切の民を招集することによって、人間の中にある理性的な感知――それは今、形象的にイスラエルと言われています――を抑圧し圧迫することを熱望します。そしてそれで彼は、「諸々の業の指導者たちを彼らの前に立て」ました。彼ら(指導者たち)は、肉の諸々の業を学ぶことを彼らに強制します。それは、詩編の中で言っている通りです:「そして彼らは、諸国民に混ぜ込まれ、それらの国民の諸々の業を学んだ[13]」と。

彼は、ファラオのために諸々の町をも建設することを教えます:「ピトム」、それは私たちの言語の中では、欠如の口あるいは深淵の口を意味します;「そして、ラメセス」、それは蠕虫の騒動と解釈されます;「そしてオン、すなわち、ヘリオポリス[14]」、それは太陽の町と言われます。ファラオは自分のためにどのような諸々の町が建設されることを命じているかを、あなたはご覧ください。(聖文書は)「欠如する口」と言っています。実際、口は嘘を語るとき欠如します。なぜなら(口は)、真理と諸々の証明を欠如するからです。実に彼は、「始めから嘘つきでした[15]」。それで彼は、自分のためにそのような諸々の町が建設されることをの望みます。あるいは、「深淵の口」(とも聖文書は言っています)。なぜなら深淵は、彼の破滅と滅びの場所だからです。そした彼の他の町は、「蠕虫の騒動」です。なぜなら、彼に従うすべての人たちは、「蠕虫が蝕む場所に、そして、盗人たちが穴を掘り盗み出す場所に[16]」、自分たちの諸々の宝を集めるからです。そればかりか彼らは、「彼が自分を光のみ使いのように変える[17]」が故に、偽りの名前によって、「太陽の町」を建設します。ですから彼はそれらの中で機先を制し、それらの中で諸々の精神――神を見るために作られた諸々の精神――を捕らえます。

しかしながら彼は、戦いが自分に迫っていることを予見します。そして彼は、自分の民に破滅が準備されて臨みつつあることを感知ます。それ故、彼は言います:「イスラエルの民は私を超えて強力である[18]」と。どうか彼が、私たちに関してもそのことが言えますように;私たちが彼を超えて強力であることを感知しますように。どのようにして彼は、そのことを感知できるでしょうか。彼が私に諸々の悪い考えと諸々の最悪の欲望とを投げ入れても、私が受け入れず、彼の「諸々の火矢を信仰の盾によって[19]」斥けるなら、彼が私の精神に提案するありとあらゆるすべての諸々の事柄において、私が私の主キリストを思い出し、「あなたは、後ろに行け、サタン。実際、次のことが書いてある:『あなたは、あなたの神なる主を拝みなさい。そしてあなたは、彼だけに仕えなさい』[20]」と、私が言うなら;もしもそれらのことを私たちが、一切の信仰と一切の良心によって行うなら、彼は、私たちについても「イスラエルの民は、大いなる民であり、私を越えて強力である[21]」と言います。

そればかりか、「おそらく私たちに戦いが起こり、彼らも私たちの敵たちと同意するのではないか」と彼が言っていことも、預言者の諸々の声から、戦いが自分に来つつあり、自分がイスラエルの子らによって捨て去られることを予見しています――彼らは自分の敵と同意し、主の許に身を投げるだろうから。実際そのことは、彼について預言者エレミアが預言したことです:「ウズラは叫び、自分が生み出さなかった諸々のものを集め、判断なしに自分の諸々の富を作った。彼らは、彼の諸々の日の半分の中で彼を捨てるだろう。そして彼は、自分の最後の諸々の事柄の中で愚か者になるだろう[22]」とあります。ですから彼は、自分が生み出さなかった諸々のものを集めたウズラと言われていることを理解しています;そして、自分が判断なしに自分の諸々の日の半分の中で集めた人たちが彼を捨て、彼らを生んだ主にして自分の造り主キリスト・イエスに従うだろうということを理解しています。しかし彼は、馬なった者たちを集めました。そしてそれで彼は、彼の最後の諸々の事柄の中で愚か者のまま残るでしょう――「作り主[23]」の許に、そして自分の親の許に、今は彼の暴虐の故に「呻くありとあらゆる被造物[24]」が避難するとき。そして彼は、そのことに憤慨し、「彼らは我々を攻撃し、我々の土地から出て行くかもしれない[25]」と言います。彼は、私たちが彼の土地から出て行くことを望みません。むしろ彼は、私たちが常に「土地的なものの像を担う[26]」ことを望んでいます。実際、もしも私たちが彼の敵――私たちに諸々の天の諸々の国を準備して下さった方――の許に避難したなら、私たちは、「土地的なものの像」を捨て、「天的なものの像[27]」を受け取るのが必然でしょう。

ですからそれ故にファラオは、「諸々の業の監督者たち[28]」を立てました:彼らは、私たちに自分たちの諸々のやり方を教え、私たちを悪徳の制作者たちに仕立て、私たちに諸悪の教導権を提供します。ファラオが(人々の)前に立てたそれらの監督者たちと教師たちは多数です。そして、すべての人たちを強要し、命令し、諸々の土地的な業を強奪するその種の搾取者たちの数の多さは膨大です。それ故、主イエスは来て、他の監督者たちと教師たちを作りました:彼らは、それらの者たちに対して戦い、それらの者たちのすべての「諸々の主権と諸々の権能と諸々の力[29]」を投げ倒し、それらの者たちの諸々の暴力からイスラエルの子らを護り、私たちに諸々のイスラエル的な業を教えてくれます;そして次のことを教えてくれます:すなわち私たちが再び、精神によって神を見ること、ファラオの諸々の業を後に残すこと、エジプトの土地から出て行くこと、エジプト的で蛮族的な諸々の風習を捨てること、「古い人間をその諸々の行いと共にすっかり脱ぎ、神に即して創造された新しい(人間)を着ること[30]」、私たちを作った方、私たちの主・キリスト・イエスの像に即して「日に日に新たにされること[31]」。「彼に、栄光と力が代々にありますように。アーメン[32]」。



[1] Ex.1,8-9.

[2] Cf.Ex.1,14 et 16.

[3] 2Tm.2,8.

[4] Cf,.Ex.1,9-16.

[5] Cf,.Ex.1,8.

[6] Cf,.Ex.1,11.

[7] Cf,.Ex.1,8.

[8] Ps.13,1.

[9] Ex.1,9-10.

[10] Cf,.Gn,32,25-31.

[11] Ex.1,9.

[12] Col.2,14-15.

[13] Ps.105,35.

[14] Cf.Ex.1,11(LXX).

[15] Cf.Jn.8,44.

[16] Cf.Mt.6,19.

[17] Cf.2Co.11,14.

[18] Ex.1,9.

[19] Cf.Ep.6,16.

[20] Mt.4,10 et Dt.6,13.

[21] Cf.Ex.1,9.

[22] Jr.17,11.

[23] Is.17,7.

[24] Cf.Rm.8,22.

[25] Ex.1,10.

[26] Cf.1Co.15,49.

[27] Cf.1Co.15,49.

[28] Ex.1,11.

[29] Col.1,16.

[30] Cf.Ep.4,22-24; Col.3,9.

[31] Cf.2Co.4,16.

[32] 1P.4,11.

 

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