第二講話[1]

助産婦たちとモーセの誕生とについて  

 「ヨセフを知らなかったあの王」は、神の民に対して多くのことを試みており、害するための新しい諸々の業を常に求めています。しかし、今、彼の狡猾さは、度を超えています――助産婦たちの奉仕によって民の子孫を絶滅しようと努めるとき。彼女たちの技術によって命が守られるのが常であるのに。実際、彼は何を言っているのでしょうか。

「そして、エジプト人たちの王は、ヘブライ人たちの助産婦たちに言った:彼女らの一人の名前はシフラ、そしてもう一人の名前はプアという。彼は言う:あなた方がヘブライ人婦人たちの分娩を介助し、彼女らが出産に迫ったとき、男だったら、あなた方は彼を殺しなさい;女だったら、あなた方は生かしなさい、と[2]」。しかし、引き続く諸々の箇所中で次のことがそれらに付け加えられています:「しかし、助産婦たちは神を畏れていた。そして彼女たちは、エジプトの王が彼女たちに命じたように行わず、男たちを生かしておいた[3]」と。

書き記された諸々の事柄が歴史の物語に即して受け取られるべきものなら、(聖文書が)言っていること、すなわち、「助産婦たちは、エジプトのおうが彼女らに命じたことに即して行わなかった」ということは存立し得ないように見えるでしょう。実際、エジプトの王が生かせと命じた女たちを、助産婦たちが生かさなかったことが見出されません。実に(聖文書は)次のように言っています:「もしも男なら、あなた方は彼を殺しなさい。もしも女なら、あなた方は生かしなさい[4]」と。そしてもしも彼女らが、エジプトの王が命じたように行わなかったなら、彼女らは、王の命令に反して男たちを生かしたように、女たちを殺すべきでした――そのことも、王の命令に反することになるために。なぜなら、女たちを生かすことは、ファラオの命令に則して行ったことになるからです。しかしながらそれらの事柄は、文字も友たちのためのものです。彼らは、律法が霊的なものであって[5]、霊的に知解されねばならないことを考えていません。

しかし、書き記されたすべての諸々の事柄は、諸々の古事の諸々の物語のためでなく、私たちの規律と利益のために書かれたものものであることを学んだ私たちは、朗読される諸々の事柄は今でも、形象的にエジプトと言われているこの世界の中ばかりでなく、私たち一人ひとりの中でも起こることを把握します。ですから私たちは、どのようにしてエジプトの王――彼は、「この世の君[6]」です――男たちが生かされることを望まず、女たちが(生かされることを)望むのかを探求しましょう。もしもあなた方が覚えているなら、私たちはしばしば、議論しつつ[7]、女たちの中に肉と肉の情動とが示されており、他方、男は理性的な感知と知性的な精神であることを明示しました。ところで理性的な感知――それは、天的な諸々の事柄を味わうことができ、神を知解することができ、「上にある諸々の事柄を求めること[8]」ができます――、それをファラオ、エジプトの王かつ君は憎み、それが無き者にされ、滅ぼされることを切望します。しかし彼は、肉に属するものなら何でも生きることを切望します。そして、物体的な質料に属する諸々もの生きることだけを切望するのでなく、増やさ耕されることを切望します。実際に彼は次のことを望みます:すべての人たちが諸々の肉的なものを味わい、諸々の時間的なものを願い、「土地の上にある諸々の事柄[9]」を求めること、誰も自分が何処からここに来たのかを探求しないこと、誰も「自分の諸々の目を天の方に挙げ[10]」ないこと、誰も祖国である楽園を思い起こさないこと。ですから、人間たちが諸々の欲望と諸々の悦楽の中で生活を送ること、奢侈に浮沈し、諸々のご馳走とワインと諸々の宴会と諸々の寝台と諸々の淫乱にうつつを抜かすことを[11]、あなたが見たとき、あなたはそれらの中で、エジプトの王が男たちを殺し、女たちを生かすのを知るべきです。他方もしもあなたが次の人を見るなら:すなわち、「千人に一人[12]」の稀な人が神へと回心し、諸々の目を上方に向け、諸々の永続的で永遠な事柄を探求し、「諸々の見られるものでなく、諸々の見られないもの[13]」を観想し、諸々の悦楽を憎み、節制を愛し、贅沢を避け、徳を琢磨しするのをあなたが見るなら、ファラオはその人を男として、男性として殺害することを熱望し、迫害し、追撃し、彼に対して千の策略で攻撃します。彼は、そのような人たちを憎み、彼らがエジプトの中で生きるのを許しません。ですからそれ故に、この世の中では神のしもべたちと、神を探求するすべての人たちは、軽蔑し見下されることになります。それゆえ彼らは諸々の侮辱に曝され、それゆえ彼らは諸々の恥辱に満たされ、それゆえ彼らへの諸々の嫌悪と諸々の迫害が惹起されます。なぜならファラオは、そのような男たちを憎みます。彼は女たちを愛しています。更に彼は、助産婦たちを堕落させることを企み、彼女たちを通して自分が臨むことを果たそうとします。彼女たちの名前も、それら(の名前)が書き記されることを望んだ聖霊の予見を通して示されています。一人は「シフラ」――それは、「雀」と解釈されます――、そして、「プア」――それは、私たちの許では「赤面」や「恥ずかしみ」と言われ得ます――と(聖文書は)言っています[14]。ですから彼は、彼女たちを通して男たちが殺され、そして、女たちだけが生かされることを求めます。



[1] 以下は、読みやすさを無視した文字通りの直訳である。意訳を望む者は、原語に当たるべきである。

[2] Ex.1,15-16.

[3] Ex.1,17.

[4] Ex.1,16.

[5] Cf.Rm.7,14.

[6] Jn.16,11.

[7] Cf.Hom.Gn.4,4,13s et 5,2,12s(SC7bis,152s et 166s); Sel.in Ex.23,17(PG12,296D); Hom.Ex.13,5,27s; Hom.Lv.1,2,56s(SC286,74s).

[8] Col.3,1.

[9] Col.3,2.

[10] Lc.18,13.

[11] Cf.Rm.13,13.

[12] Qo.7,29.

[13] 2Co.4,18.

[14] Cf.Ex.1,15.

 

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