さて、レビ族に属するそれらの人たちは、「幼児が優美である」のを見て、「彼を三か月の間、隠した。しかし彼らは、彼をもはや隠すことができなかったので、彼の母は、草籠を取り、それにアスファルトを塗り、幼児をその中に投げ入れ、それを川に隣接する沼地の中に置いた。そして彼の姉は、何が彼に起こるかを見るために、遠くから観察していた。しかしファラオの娘が、川の中で洗うために降りてき、幼児が泣いているのを聞き、(人を)遣わして彼を取り上げた。そして、ファラオの娘は、彼がヘブライ人たちの幼児たちに属すると言った[1]」と(聖文書は)言っています。それらの事柄の後で、どのようにしてその子の姉が、彼を養うを呼び招こうと言ったのかが述べられています。(聖文書は)言います:「そして、ファラオの娘は彼女に向かって言った:その幼子を私のために守りなさい。そして、私のために彼を養いなさい。他方、私はあなたに費用を与えましょう。彼女が彼を養い、彼がより強くなったとき、彼女は彼をファラオの許に連れて行った。そして彼は、彼女にとって息子になった。そして彼女は、彼の名前をモーセと名づけて、言った:なぜなら私は、彼を水から取り上げたから、と[2]」。

それら一つひとつの事柄は、膨大な諸々の神秘に満ちており、(説明に)多大な時間を要します。そして、もしも私たちがそれら(の諸神秘)の中で(時間を)費やせば、全日の時間でもおそらくほとんど十分ではありません。しかしながら手短に、幾つかの事柄が私たちによって教会の建徳のために打ち出されるべきです。私は、ファラオの娘が、諸国民から集められる教会(である)と見られ得ると考えています。彼女は、不敬虔で不公正な父を持っているにもかかわらず、預言者を通して次のことが彼女に宛てて言われています:「娘よ、聞け。そして見よ。そしてあなたの耳を傾けよ。そして、あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。なぜなら王は、あなたの美貌に夢中になったからだ[3]」と。ですから彼女は、父の家から脱出して、自分の父の家の中で結んだ諸々の罪から洗いだされるために諸々の水の許に来ます。その後、直ちに彼女は、「憐みの腸[4]」を受けて、幼児を憐れみます。ですから、諸国民から来るその教会は、沼地の中にモーセが自分の者たちから捨てられ曝け出されているのを見出し、彼を乳母に与えます。彼は彼女らの下で養われ、そこで幼児期を過ごします。しかし彼がたくましくなったとき、彼は彼女の許に導かれ、息子として採用されます。モーセが律法と呼ばれることは、多くの場所の中で既にしばしば論じられました[5]。ですから教会は、洗礼の諸々の水の許に来て、更に律法を受け取りました。それは、籠の中に閉ざされ、タールとアスファルトに忘れられていたものです。その籠は、蔓やパピルスから編まれた籠の類であり、あるいは、諸々の木の皮から形成されたもので、その中に幼児は投げ込まれ、曝け出されていました。ですから律法は、そのような籠の中に横たわっており、タールとアスファルトによって忘れ去られ、ユダヤ人たちの卑しく不快な諸々の感知によって汚されていました――教会が諸国民から来て、その律法を泥的で沼的な諸々もの場所からその律法を受け取り、知恵の諸々の庭と王的な諸々の部屋の中で認知するまで。しかしながらその律法は、その幼児期を自分たち者たちの許で過ごします。実際、それを霊的に知解することを知らない彼らの許では、それは微小なものであり、幼児であり、乳母たちから食物を得ています[6]。しかしモーセは、教会の許に来ると、教会の家の中に入ると、より強くよりたくましくなります。なぜなら文字の覆いが取り除かれることによって、その朗読の中では、「完全で固い食べ物」が見出されるからです[7]

しかしながら、律法がその許で生まれ養われたところの女が、ファラオの娘から実に諸々の養育の報酬として受け取るものは何でしょか。シナゴーグが教会から受け取るものは何でしょうか。同じモーセが次のように言って書いていることが理解され得ると、私は思います:「私は、民でないものへの妬みの中にあなた方を導くだろう、愚かな民への怒りの中にあなたを駆り立てるだろう[8]」と。ですからシナゴーグも、教会から、もはや諸々の偶像に崇拝しないという報酬の幾分かを受けます。実際、(シナゴーグは)、諸国民から来る者たちが、神へ回心し、諸々の偶像をもはや崇拝せず、唯一の神以外の誰をも拝まないのを見て、諸々の偶像をもうこれ以上に崇拝することを恥じるのです。ですからそのような報酬の幾分かを――すなわち、幼い律法を養育すべきであるとそれにま思われたということを――、シナゴーグは教会から受け取ります。

しかし私たちも、たとえ私たちがファラオを父として持ったとしても、たとえ「この世の君[9]」が私たちを諸々の悪い業の中に産んだとしても、私たちは、諸々の水の許に来たとき、神の律法を私たちのために摂取しましょう。また、その文字の貧相で曖昧な覆いが私たちにとって粗末なものになりませんように。その(文字の)子供っぽく乳のような諸事を私たちは通り過ごし、完全で強壮な諸事を私たちは摂取し[10]、それらを私たちの心の王的な諸々の部屋の中に据えましょう。私たちは偉大で強壮なモーセを持ちましょう。彼について如何なる卑小なことも、如何なる低劣なことも感知しないようにしましょう。むしろまったく崇高で、まったく卓越し、まったく優美なこと(を感知しましょう)。実際、霊的なものなら何でも、崇高な知解に属するものなら何でも、まったく偉大です。そして私たちは、私たちの主イエス・キリストに祈りましょう:()ご自身が私たちに、モーセがどれほど偉大であるか、どれほど崇高であるかを、啓示し明示してくださいますようにと。実際、彼は、ご自身が臨む人たちに、聖霊を通して啓示します[11]。彼に「栄光と力が代々にありますように。アーメン[12]」。



[1] Ex.2,2-6.

[2] Ex.2,9-10.

[3] Ps.44,11.

[4] Cf.Lc.1,78; Col.3,12.

[5] Cf.eg.Hom.Lv.VI,2;XIV,3 etc.

[6] Cf.He.5,12s.

[7] Cf.2Co.3,16.

[8] Dt.32,21.

[9] Cf.Jn.16,11.

[10] Cf.He.5,12s.                  

[11] Cf.1Co.2,10.

[12] 1P.5,11;Ap.1,6.

 

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